地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ「平清盛」視聴~第18話「誕生、後白河帝」

 今回の物語は、17歳で世を去る近衛天皇の次の皇位継承者にかかわる権力を担う方々とその周辺の思惑と其の画策が中心で、結局、後白河帝が誕生するというどろどろとした権力闘争の展開。しかも、その思惑の人間関係は複雑。
 ドラマでは、この関係を9~14回に分けて、王家の基本的な対立関係を描き、15~16回辺りにかけて、その対立関係と藤原摂関家や主たる登場人物のかかわりについて描き分ける工夫をしているようだ。それでも、正直にいえば、これでもかというおどおどしい人間関係に、後半はついうとうととなってしまった。
 この回の東の都人の視聴率は、13.5%とのことで、やや持ち直して横ばいという状況のようだ。

 坂の上のサイドボード「平清盛 第18話「誕生、後白河帝」」でも、王家の基本的な対立関係に視点をあてて整理される。 図示された資料と照らし合わせ、そこに、藤原摂関家や主たる登場人物のかかわりを加えて、頭の中を整理する。
 家族は、自分にはちんぷんかんぷんな文系興味なので、その対話には、以下の後白河天皇の評価部分を活用させていただいて、マイブームの雰囲気を保つ。
 この頃の雅仁親王は政治的な問題には一切感心を示さず、当時流行していた歌謡・今様に耽溺する日々を送っていたという。兄である崇徳院は雅仁親王のことを「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評しており、また、雅仁親王の乳父だった信西(藤原通憲)でさえ、「和漢の間 比類少なき暗主なり」と、こき下ろしている。当時の朝廷内では、誰もが雅仁親王のことを「帝の器にあらず」と考えていた。
 文系興味の家族にとっては、後白河天皇は、法王となってから造寺・造仏に尽くし、12世紀後半に成立した歌謡集【梁塵秘抄】の撰者の方という文化的な功労で名を成した方というイメージが強いようだ。
 「大辞林」で確認すると、確かに、今回の物語の部分は「即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた」という程度のふれ方をし、「平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった」と、むしろプラスの評価で紹介される。
 文系興味者としては、その上に、先に挙げた文化的な功労者のイメージが上乗せされた方という評価になるようだ。

 その評価で今回のドラマをみると、「遊びをせんとや生まれけむ」との白拍子・乙前の今様に、心を揺さぶられるのはいいとして、あの時期に、芸事の盛んな青墓宿を訪れるという展開が不自然に感じられるようだ。しかも、この回のドラマ紀行では、以下のような岐阜県大垣市の青墓を紹介されるという丁寧さだ。
 青墓宿は、都と東国を結ぶ東山道の宿駅で、芸能をなりわいとした傀儡(くぐつ)といわれる人々でにぎわい、今様を歌う遊女たちの存在は広く知られていました。
 1200年以上の歴史を誇る円興寺の界わいに暮らしていたといわれる遊女たち。後白河天皇は彼女らを京に招き、今様の習得に励みました。なかでも乙前を師と仰ぎ、生涯手厚くもてなしたといいます。

 第18話「誕生、後白河帝」の要点を「エキサイトドラマ特集『大河ドラマ平清盛』」からお借りする。
 1154年、近衛天皇(北村匠海)の容態はますます悪くなる。鳥羽法皇(三上博史)は天皇の病状は自分が崇徳上皇を遠ざけたことの報いではないかと、悔やむ。崇徳上皇(井浦新)は清盛(松山ケンイチ)を屋敷に呼び、味方になるよう説くが、清盛は鳥羽に忠誠をつくしてきた以上くみすることはできないと語る。清盛はあくまで鳥羽と崇徳の仲を取り戻させたい、と思っていたのだ。清盛は鳥羽と会い、心同士を引き合わせてみてはいかがかと説き、鳥羽の心を動かし始める。が時はすでに遅かった…1155年、近衛天皇はついに17歳の若さで世を去り、次の皇位継承者の決定会議が行われる。鳥羽は崇徳の子・重仁親王(雄大)をおすが、ちょう臣・信西(阿部サダヲ)はそれを許さず、別の人間を帝にすえることを画策する。そして、ついに決定した次の帝は

by shingen1948 | 2012-05-09 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)