続・旧道諸説を歩いてみる⑦
2012年 04月 29日
徒歩や自転車で、南から進んで金谷川付近まで来ると、この段丘崖を越えて信夫の里に入るには、どれが自然な道筋なのかと思う。その実感を大切にして、現在の道筋をみてみると、その道筋を見つける苦労のようなものを読み取ることができる。
例えばJR東北本線だが、上り線の方が旧東北線だが、これが大きく東に振れるのは奥州街道松川宿とのかかわりのようだが、金屋川駅と松川駅の間の複線化でできたその下り線は、段丘崖を挟んだ西側を通るという複雑さだ。先の松川事件の散歩で、この地形的な制約と松川事件が起きる要因との関連を実感したところだ。
金谷川駅を越した東北本線は、その段丘崖の西端を抜けて行く。旧東北本線が、旧奥州街道や国道4号線バイパスの走る高まりの方に回り込むのは、穏やかな勾配を確保するためなのだろうと思われる。
複線化された新東北本線は、直線で北に向かうが、この穏やかな勾配は、高架という新しい技術で確保された道筋なのだろうと思う。
他の道筋だが、旧米沢街道は、そのJR東北本線を跨いでから、その本線に沿うように信夫の里に入り、大森城に向かう。
東北自動車道は、それよりも更にその西側のラインを描くのだが、これはそれらの道筋と重ならない事も考慮の一つにあるように思える。
奥州合戦石那坂防御ラインの視点で見れば、このラインが西端とみることができるように思う。
トンネルを越した東北新幹線の道筋と奥大道とされるラインが近いのは、共通の意図によるものではないかと、勝手に思う。
それは、わき目も振らずに一気に北に進みたいということなのではないかということだ。時代は違うのだか、共通の思いのようなものを勝手に想像して楽しむのも、自由な散歩人の特権なのかもしれないとも思う。
もう一つ、歩きにこだわる散歩では、旧国道四号線及び奥州街道筋よりも、米沢街道筋や奥大道とされる道筋に沿った信夫の里の盆地入りが自然に感じる。このことと大森付近が先に開けていたという歴史的な流れの納得とつながっているのではとも勝手に思う。
そんな実感と重ねながら、石那坂の戦いの防御ラインをたどった。
小林氏の奥州合戦石那坂防御ラインだか、「吾妻鏡」に記されるという大手筋の坂の下に堀を設け、「逢隈河の水を懸け入れて」、石弓を張るという布陣のイメージと浅川筋が重なるということだろうと思うことを付け加えておく。