続・旧道諸説を歩いてみる⑥
2012年 04月 28日

その防御ラインを、西側から確認している。先に整理したのが、高速道路がトンネルで貫通する愛宕山からその脇の揚水施設事業施設があるあたりまでだったが、今回はその続き。
愛宕山の右手の窪地に旧米沢街道の道筋が走る。窪地の右側に走る道筋が、その道筋だ。

その米沢街道を南に進んだあたりから防御ラインを眺めて、街道右側の高まりをとらえるとこんな感じだ。
この高まりは左右に広がっていて、その中央付近の微高になっている辺りに民家が建つ。それが、右手に写る民家だ。

その左手の高まりにお堂が建っていて、気になって確かめたら、薬師堂のようだった。
小林氏は、その薬師堂のある高まりから東に広がる高まりの地形と、福大のある高まりとの間の窪地に奥大道が走るとみるようだ。
その奥大道から眺めた風景を地図で確かめると、薬師堂のある高まり沿いに津島神社、並木大山祇神社が並んで見えるようになるようだ。

今は、この窪地の福大のある高まり側には、東北本線、193号線が走る。
その道筋と奥大道が走る間に微高地があって、ここに、八幡神社が建つ。
今回は、小林氏が描く奥州合戦石那坂防御ラインを見てみた。
この奥州合戦石那坂防御ラインは、諸説あるようだ。その主流は、奥大道の道筋のある高まりの西側の高まりを中心にして、奥大道が平地に下ったあたりの平場の北側にかけてその延長線を延ばしてイメージするようだ。
ただ、「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宣夫)」<歴史春秋社>は、この小林氏の説に合理性があるとみているようだ。また、この付近の奥大道筋については、確認した範囲の中ではあるが、奥州合戦石那坂防御ラインにかかわらず、ほぼ同じような道筋を想像しているように感じている。
