大河ドラマ「平清盛」視聴⑦~西行に視点をあてて地域の散策とつなぐ③
2012年 04月 16日
藤原摂関家の兄弟争いと、兄の忠通が呈子の入内を華々しいものにするための方策とのからみで、貴族の家人らしき男ともめる常盤が登場する。
源義朝が、藤原摂関家の言いなりになる父為義と衝突を繰り返す中で、その常盤に合うという設定でつながらせる。
王家は、崇徳院の御所に権力争いから遠ざけられた兄崇徳院と弟雅仁親王が暮らすという別描写。
その中で、清盛は、陸奥国への長旅から戻った西行と再会を果たすという設定で、西行が登場する。
西行はその生涯で二度奥州の地を旅したという。その最初の奥州紀行は諸説あるようだが、ドラマでは、出家して数年後の最初の旅から戻った西行の登場ということのようだ。そのセリフから奥州平泉まで旅した設定であること分かる。西行は、奥州藤原氏と親戚関係との説もあるらしい。
平安の都人の詩心とかかわる歌枕の世界は、恐らく都で言葉遊びの範囲で思い巡らすのが当時の常識だったろうと思う。左遷でもないかぎり、都の上級貴族が、現地歌枕を見ることはなかったろうと想像する。
憧れはあるだろうが、それはあくまでもイメージの世界。そんな時代の中での、西行の奥州紀行だったはず。しかも、そのイメージだけの世界でも、平安朝時代の北限は松島湾付近らしいので、その旅は、奥州という奥地のその奥までの紀行だったという設定だろうか。
二度目の晩年の旅は、『吾妻鏡』に出ているとか。
平安の都人の詩心の世界の焦点は、見たこともない塩釜の浦へのあこがれで、想念の中で第一等の景観として歌枕に磨かれたという。
その世界は、塩釜だけではなく、多賀城の平凡な丘陵の一つが「末の松山」としてもてはやされ、名取川までも歌枕になっているという。
ここ信夫の里も、単なる地名「しのぶ」の言葉が、みだれる恋の心というイメージに重なるのだと聞く。それは、古代奥州信夫の里では、乱れ模様の絹布を産した「信夫もじずり」に由来するとか。