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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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北五老内町遺跡付近②

 手持ち資料を確認すると、昭和42年発行の「福島のあゆみ」には、北五老内町遺跡は登場しない。子供向けだからということだけではなさそうに思う。
 昭和58年発行の図版「福島市史」には、この北五老内町遺跡が紹介される。
 その紹介のされ方は、条理制遺構についての説明があって、腰浜廃寺と五十辺舘にもその地割と考察される遺跡があるとして、その間にある遺構だとして、次のような状況だと解説する。
 古瓦や土器が出土し、多数の炭化米の層があり、礎石が発見されている。古代信夫郡を治めた郡衙の候補地である。

a0087378_4431743.jpg
 これに、その炭化米だとする写真と、長島正夫氏の描く北五老内町付近の炭化米出土分布図として88点プロットした図を掲げている。その範囲は、ABCDで囲まれた範囲の赤線で囲った辺りだ。
 今回頂いた資料では、西に道路1本広めの範囲を点線で示しているらしいことがわかる。
 「ふくしまの歴史」ダイジェスト版から、昭和40年(1965)頃、この範囲から多くの焼米が出土して、信夫郡家の正倉院跡といわれていたことと、平成16年(2004)の工事立会調査で、一面に厚く積み重なった焼け米が出土して、正倉院跡以外には考えられない遺跡としたらしい経緯が伺える。

 青文字は、この「炭化米出土分布図」に表示されたもので、現在は給油所以外はここにはない。C地点の職安としたのは、税務署とされていたものを間違ったのだが、自分の記憶の中では、ここは済生会病院付近。
 この図では、その済生会病院から西に延びるこの図の一本北の道筋に「旧松川跡」だと印す。そして、その南側に河岸段丘筋と考えたらしいラインが入る。説明はないが、炭化米出土としてプロットされる範囲は、このラインの南側ということらしい。
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 河岸段丘筋と考えたらしいラインは、一本西の道筋と済生会病院から西に延びる道筋の交点付近から眺めると、イメージできる。
 都市化された風景の中にこの高低差を意識することはなかったが、この高低差がその範囲のイメージの手助けもしてくれる。

a0087378_4554665.jpg
 これは、C地点から南を眺めているが、旧4号線の道筋は、奥州街道の道筋でもある。その道筋の西側に信夫郡家の正倉院跡らしい焼け米の出土地が分布するという位置関係だ。
by shingen1948 | 2012-02-21 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)