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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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北五老内町遺跡付近~2012の立春の頃の風景⑪

 「2012の立春の頃の風景」を求めて付近を散歩しながら、浜田町あたりまで足を延ばした。若い頃、このあたりに住んでいたのだが、この辺りの変化が激しくて、その思い出と景色が結びつかない。昔住んでいた辺りがどこだったのかさえ分からなくなっている。
 確認していくと、信夫郡衙の付属寺院とされる腰浜廃寺跡の近くに住んでいたということらしい。
 その辺りも確かめてみたいという思いがあった。
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 先の講座「『ふくしま』を知る」で頂いた資料では、その遺跡は実線で示されるが、その正倉院(米倉)とされる北五老内町遺跡は、その範囲を点線で示されている。
 郡衙は、基本的には正倉院(米倉)と郡庁(行政施設)と付属寺院、それに館(宿舎・厩)とそれにかかわる厨院(調理棟)など約四十棟で構成されるという。北五老内町遺跡は、その正倉院(米倉)と考えられているらしい。
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 福島市のホームページによると、北五老内町周辺では、昔から焼き米が発見されていたという。具体的に、花園郵便局北側のガソリンスタンド建設敷地の溝の中から、籾殻がついたままの焼米が、約30㎝の厚さで発見されたことも紹介する。
 そのガソリンスタンドが、ここだろうと推定する。

 こういう遺跡の認識の経緯は、大概は、先に長者伝説のようなものがあって、その辺りを調査することで、焼き米などが出土し、郡役所らしい事が特定されていくということのようだが、ここはその辺りが少し違うような気がする。
 想像でしかないが、遺跡としての認識がない所から焼き米が出土するということが先にあって、それが腰浜廃寺等とのかかわりから、遺跡としての可能性の認識になったという経緯なのではないかと推定する。
 点線で示されるのは、そんな事情ではないかと勝手に推定する。

 ただ、福島市のホームページでは、「北五老内町周辺に郡役場があった可能性が高い」として、北五老内町に郡役所を想定し、ここにその遺跡を完結したいような感じが伺える。「建物や、建物に使われた瓦や郡役所で使われた土器などはまだ発見されていません」との表現をしている。
 これを、福島県のホームページでは、信夫郡の郡衙としてのイメージを、北五老内町遺跡と腰浜廃寺跡も含めた腰浜遺跡をセットにしているように思われる。
 どちらにしても、郡役場のイメージは曖昧のままという感じだろうか。
by shingen1948 | 2012-02-20 06:03 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)