2012の立春の頃の風景④~御山千軒遺跡付近③
2012年 02月 11日
この新幹線工事と御山千軒遺跡が重なることについて、想像は自由ということで勝手な思いをめぐらす。
要は、これが偶然なのかということだ。専門家と称する方がこの事にふれたものは、見ない。
新幹線は、案外地域の都合や地形を無視して、一気に北に向かうことを優先しているような気がする。
それでも、福島盆地の新幹線の道筋を見ていると、一気に北進というにはやや西側にずれているようにも感じる。これは、多少は福島駅を意識しているようにも感じなくもない。それでも、ほぼ直線的に北進することを優先させているように思う。信夫山にぶつかれば、それをトンネルでクリアーして北進するように見える。
これが、精神的には奥大道の考え方とどこか似ているのではないかという勝手な思い込みだ。
「ふくしまの歴史」では、現石那坂が石那坂の戦いの地とするが、半沢氏は古墳群を見間違った可能性を指摘し、小林氏は、それを新幹線トンネルの平地の出口と見る。
また、阿津賀志山防塁の森山地区の発掘調査で東山道がみつかったとされる地点は、現旧国道4号線の道筋に近い。
思い込みを元にして、この2点を直線で結べば、新幹線の道筋よりやや東側のラインになる。
少なくとも、阿津賀志山防塁への大軍は、真っ直ぐこの新幹線の道筋よりやや東側のラインで攻めのぼってきたのではないかと勝手な想像をする。それなら新幹線の道筋が、散歩の貴重な目印になるのではないかと思えてくるのだ。
すると、そこに立ちはだかるのが信夫山だ。新幹線はトンネルで一気に突き進む。
これが古道の道筋なら、東に回り込むか西に回り込むかという事になるのではないかと、これも勝手な思いだ。どちらの回り込みもあり得るはずだと思うのだ。その西に回り込んだ付近に、この御山千軒遺跡があるという見方だが、これがあり得るのかどうかということが分からない。
千軒遺跡は、松川にも宿地千軒というのがあるとのこと。
「ふくしまの歴史」によると、「信達一統志」では、「むかし、千軒の家があったので今も宿地千軒と呼ばれる」と記されると紹介する。近くの上木戸内、下木戸内の字名が、中世の頃に栄えた町の存在の証明とも。
この位置が、字古天神から字元西への東西500mとのことだが、これが15~16世紀栄えたと推定し、古代国家が設置した宿駅ではないが、奥大道とのかかわりで栄えたと推定されているとある。
もっと曖昧だが、先の清水町宿の散歩に関わって、片原(あるいは石那坂)千軒の言い伝えも見た。これも、奥大道とかかわらせた言い伝えだった。
それに対して、この御山千軒は、事実として新幹線工事前の発掘調査によって集落の存在が確認できたという紹介しかみない。