地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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奥州街道清水宿~出雲神社

 奥州街道清水宿に立ち寄ったことを整理したのは、共楽公園への道筋の散歩の範囲だった。
 奥州街道清水宿は、そこから南側に続く。金沢黒沼神社に向かう時にも、この道筋にこだわり、ちょっと立ち寄った。これが、1月2週目頃。
 南沢又城付近から脇道をあちこち探りながら、石那坂付近へ向かう。このママチャリで動き回ったのが、1月の2週目頃。
 石那坂付近までの散歩は、南沢又城付近からの道筋と小林氏が描く道筋とのイメージの重なり具合を感じてみたいという思いもあった。

 石那坂付近から、東北本線のトンネル附近の坂道を登って奥州街道清水宿に出る。
 ここで、見落としに気づいたものの幾つかを確かめておきたいということもあったが、この時期のママチャリの限界という思いもあった。
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 出雲大神宮案内由緒は、この神社は、炭焼き藤田の家の氏神として祀られたとし、その炭焼き藤田と金売り吉次伝説とを関連させて解説する。
 今回の散歩とのかかわりで、興味深いのは、その炭焼き藤田の家の位置だ。
 「長者屋敷と呼ばれ村人とともに栄えたが、鎌倉幕府による奥州合戦・石名坂の戦いで消失」とある。
 平石の長者屋敷は、平石小学校の東側だ。
 小林氏が描く東山道の道筋とのかかわりでいえば、その道筋から西側に下った地点であり、東山道の諸説の一つ「石那坂の吉次宮手前から山発田に降りる説」を思い浮かべる地点でもある。
 更には、大日本地名辞典に「昔のもの片原の宿」があるとする山発田とも重なり、東山道の諸説のもう一つ「曲がらずに字吉次下、町畑の旧道で、これが片原(あるいは石那坂)千軒とも言われたものではないかとする説」とも重なる。

 その視点でこの解説を読むと、「藤太や、吉次兄弟の家である平石の長者屋敷は、文治5年(1189年)の奥州合戦で焼失との解説」、「出雲大神は村人の手で守り続けられていたが、奥州街道が開かれた慶長年間(1596~1615年)に、ここに移されたという解説」に説得力を感じてしまっている。

 平石小学校隣の平石神社は、地域の幾つかの神社を合祀していくうちに、御祭神による神社名では呼べなくなったと想像する。それで、地名の冠をつけた神社名となったと思われるが、その合祀される中にこの出雲大神も含まれていたものかどうかは分からない。
by shingen1948 | 2012-01-23 10:08 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)