地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「石那坂の戦い」にかかわる東山道のイメージ

 「気を感じて伏し拝む⑧~金沢黒沼神社④」で、古道の説にもふれた。実は、東山道については諸説あるらしく、今のところ深入りしないでいる。
 ただ、直接的に東山道を散策するということではなく、石那坂の戦いの特定という観点で、その源頼朝の奥州遠征の道筋ということからの興味はある。
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 源頼朝の奥州遠征の道筋とその石那坂の戦いの防御ラインの交点が、金谷川の関谷付近とする小林氏の説には、説得力があるなと感じている。「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宣夫)」<歴史春秋社>でも、この説に基づいた考えが紹介されている。

 権威ある学者に紹介されるからというので説得力を感じているわけではない。
 金谷川付近の段丘崖をどう越えるのが、福島盆地に入るのに自然なのかというのは、散歩の中で感じることなのだ。
 現在の道筋をみても、その苦労を読み取ることができる。JR東北本線上り線が、旧東北線で、これは松川宿とのかかわりで、大きく東に振れる。金屋川駅と松川駅の間の複線化でできたその下り線は、段丘崖を挟んだ西側を通る。松川事件の散歩では、この地形的な制約と松川事件が起きる要因との関連を実感している。
 金屋川駅からは、金屋川付近の段丘崖の西端を抜けて行くのだが、東北自動車道も同じラインを通る。更に、トンネルを越した東北新幹線の道筋もこのラインに近づいてくる。
 歩くことやママチャリなど、人力による散歩にこだわると、旧国道四号線、及び奥州街道筋よりも、この道筋に沿った盆地入りが自然なように感じるのだ。

 この石那坂の戦いの防御ラインが自然に思えるのは、そんな実感があるからだ。微妙に違うのは、浅川の川沿いであることにこだわることだろうか。恐らく、「吾妻鏡」に記されるという大手筋の坂の下に堀を設け、「逢隈河の水を懸け入れて」、石弓を張るという布陣のイメージを配慮しているのだろうと思う。

 関谷付近から南側の源頼朝の奥州遠征の道筋だが、一の沢→清水→前越、そして、東北本線金屋川駅付近の関谷にたどりつくというのが自然なのではないかと勝手に思う。
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 小林氏は、ここから北進する道筋を、東北本線のトンネル附近を下るように描く。細部では諸説あるようだが、大筋ではこちらも自然なように感じている。
 知り得た地元の方が描く諸説をメモしておく。
 ○ 字本山地内から旧平沢村の湯ケ原に降りる説があり、福大の北側の「ハッツケ地蔵」から北進して、牛坂に降りる説と、石那坂の吉次宮手前から山発田に降りる等々だ。
 ○ この山発田が「昔のもの片原の宿」とする大日本地名辞典。
 ○ 山発田は、山を開き耕地となす意から、曲がらずに字吉次下、町畑の旧道で、これが片原(あるいは石那坂)千軒とも言われたものではないかとする説。
by shingen1948 | 2012-01-22 05:41 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)