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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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気を感じて伏し拝む⑧~金沢黒沼神社④

 金沢黒沼神社も、信夫山の黒沼神社とともに、延喜式式内社といわれている神社とのことだ。詳細は不明のようだが、散歩人としては、その権威に興味はないが、村人の守護神として古くから信仰されたこととかかわることでの興味はある。
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 そのことは、更に「気を感じて伏し拝む」べきものが、見つけやすいということでもある。そういう意味で、その雰囲気が十分感じられて満足なのだが、この金沢と御山の黒沼神社は、古くから正統の式内社格を主張し合っているらしい。

 「黒沼神社物語」によれば、江戸時代には、京都の神祇官領長の上家吉田家へ懇願し、幕府の社寺奉行に願い出て論争したが、決着はつかなかったという。
 そんな中、明治の時代に、御山(信夫山)の黒沼神社が、県社に昇格された。このことに、金沢は納得がでず、氏子総代が、「県社加列請願書」を訴願して、金沢黒沼神社は、明治29年に社格「郷社」に列せられたという。

 式内社格そのものに興味はなくても、これに結びつく古道の説には関心がある。
 その湯日は安達町の油井、伊達は郡の意から桑折付近、篤借は白石市越河とほぼ定説らしい。しかし、信夫の峰越には諸説があるようだ。「黒沼神社物語」は、以下を根拠に「信夫の峰越駅家」の金沢説をとっている。
 「峰越駅家」について、峯越にかかわることと、古墳・遺跡が多いことの条件を備えていることが重要だとする。諸説のうち、峯を越した駅との観点からは、市内五十沢の説が、古墳・遺跡の観点からは、永井川説が有力とする。金沢は峯越郷と考えられ、その条件を両方の条件を満たしているので、最有力だとする。
 黒沼縁起の跫多(あしおた)に駅家が置かれ、郡衙は駅家近くの堂平と推測する。その峯越の駅家郷の地を、地名で探っている。
 松川町下川崎の佐久間(作馬)・鍛冶屋(蹄鉄)・沼袋(野馬袋)の地名は、駅家郷として充分条件であるとする。そして、松川町金沢の足尾田「跫多」は、交通激しき足音と理解すれば、縁起の「神馬の足音響き渡りその名跫多」の意味が分かり、駅田の宮田の地名も残っているとする。

 「黒沼神社物語」では、古文書と共に、小学校100周年記念誌に紹介されたという「金沢小学校史」の「金沢の開祖と伝承」が紹介される。散歩人が、この地の感性を概観するには、これで充分だ。
 昔金沢の地は、昼なお暗き大木の繁る大森林に8尺4方の大蟹が住みつき、第30代の欽明天皇第一子である渟中倉太玉敷命が奥州平定のときに、7人の家来と共にこの地に下向した際、この大蟹を退治されたという言伝えが残っております。すなわち大蟹は、黒内で黒い血を流して、今の足尾田に逃れたが7人の家来に足を4本切り取られ「足折れた」、更に今の赤堀に逃げのび、ここでは赤い血が吹き出て堀のごとく流れたと言われ、赤堀の地名のいわれとなりましたが、更に逃れて阿武隈川に落ち込んで死んだという事です。

by shingen1948 | 2012-01-21 09:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)