共楽公園への道筋⑦~根子町人形と仙台屋
2012年 01月 07日
その眼前の山上には祠が見える。これも気になる風景だ。
奥州街道は、ここから右手に進み、旧四号線と重なるようだ。
この気になる建物を 家に戻ってから確認すると、清水町の旅籠仙台屋ということらしい。
検索を繰り返すと、「清水町宿は、町おこしの際、木の根が多く難儀したので、根子(ねっこ)町とも言われていた。」等々の情報に出会い、これらの情報をからキーワードを拾って検索していくと、土人形の情報にぶつかった。
「草の根工房」という「郷土玩具とギャラリー」のページに、以下のように詳しく紹介される。
■根っ子町土人形■(廃絶品)
福島市の近郊、清水町。かつてここに根っ子町という宿場町があり、根っ子町人形が作られていました。
長い間、土人形研究家の中では、「堤人形」か「花巻人形」の優品ではないかとうわさされていた土人形でした。
研究の結果、昭和50年代後半に、根っ子町人形が存在していたことが明らかとなり、その創始は江戸時代末期と推定されました。
文化・文政(1804~30)の頃、絵心もあり彫刻もうまかった、旅籠(はたご)仙台屋の高橋吉郎次が初代製作者とされています。
江戸末期から明治初期にかけて3代目増兵衛の頃は、節句の雛人形が盛んに作られていたようですが明治末期から大正初期にかけ、布製雛人形のおされて衰退、次郎吉の代で廃絶したとされています。
また、この仙台屋高橋家とは別に、吉野屋鈴木家でも店先にわらじ等と共に並べていたといわれます。
福島の地元での情報を耳にしないが、全国的なマニアの間では、堤、花巻、相良の東北三人形に引けをとらない優品「根子町人形」として認知されているような感じがする。
情報を拾い集めて、その人形の特徴にかかわることを再構成してみる。
○ 堤の人形師による創始の伝承があり、彩色は堤人形に非常に似ている。
○ 堤人形との違いは、人形の背面が扁平なものが多い事や、土質が荒く赤いということ。土質の荒さをカバーするためか、薄い和紙を貼った上から彩色をしている。
「郷土玩具とギャラリー」のページでは、天神の根っ子町土人形が、「古民具の土人形」のページでは、見立て和藤内童子の根っ子町土人形が紹介されている。
「見立て和藤内」を確認すると、そのモチーフは、朝鮮の役においての加藤清正の虎退治だが、当時、信長・秀吉以降の武家を描く事は禁止されていたので、歌舞伎作品の人物である和唐内を仮託するということらしい。
確かに、童子の足元には退治される虎がいる。
マニアの中で紹介されても、地元福島では再評価される気配はない。評価について頑固なのか、文化について淡白なのかは、散歩人には分からない。
※ 「ふくしまの歴史」で確認すると、仙台屋と吉野屋は、仲興寺と同じ並びのようだ。こちら側は
旧角屋、穀やか、かみやあたりと思われる。こちらの情報が、確からしさがあると思われる。なお、根っ子町土人形については、同誌では、伝承とされる方が紹介されていた。