共楽公園への道筋④~経塚?
2012年 01月 04日

干経壇
古墳か祭祀場かは不明であるが、川石に経文の一字を書いた小石が今でも発見される。もとの形状は今はない。
ここに、案内板の写真を張り付けるのは、「経壇」の上が、干(かん)か千(せん)かの解釈ができていないからだ。ちょっとお粗末な状態。「壇」は、土を盛り上げてつくった、祭りその他の儀式を行う場所という意味で使用していると勝手に想像している。
散歩人に魅力的な響きは、不明であるとか、これらの塚は、学問的には意義がないとかという部分。

その不明ということについてだが、「古墳か祭祀場かは不明」というこの「不明の高まり」と散歩で出逢ったのは、これで3カ所目だ。
その一つが、向山古墳群とされるもの。
その塚について、報告書の概要に、この向山古墳群は「大山字宮ノ下地内にあり、現在古墳として登録されているが、十三塚と考えた方が適切」とあるというのを見つけた。
「 Wikipedia」で、その十三塚の概念を確かめたが、今でも、その時にであった「不明の高まりの学術的に本来の築造理由」という以下の概念を参考にしている。
十三仏信仰の塚、古墳時代の群集墳、経塚、怨霊や無縁仏の供養塚、境界を鎮護するための塚
もう一つが、堀込遺跡(塚)だ。この塚を「道の駅の塚」として整理している。
案内板に「この遺跡は、古墳とされていたが、発掘調査の結果、埋葬施設を持つ古墳ではなく、宗教儀礼や境界・里程を示すためのいわゆる「塚」と考えられる。」とある。先の整理概念でいうと<境界を鎮護するための塚>とされるのに該当すると思っている。

今回の塚は、案内の説明によれば「もとの形状は今はない」とされ、「川石に経文の一字を書いた小石が今でも発見される」。また、「経」の字を入れて名づけている。このことから、説明される方は、先の概念の「経塚」をイメージしているのではないかと勝手に解釈する。
それなら、一石に一字書かれたということで、一字一石経)石に書かれた礫石経をイメージしてみる。
古い経塚なら、修験道関係とのかかわりや、この辺りの地名とも結び付けて想像できそうだが、それはなさそうだ。形式的には近世のもので、当時の集落に接する地より多くみいだされることが多く、上部に石塔を造立しているものが多いということらしい。
納経は寺院が主導しているはずなので、霊地の眺望のよい丘陵上であり、集落に接するという適地としてえらんだのだろうと勝手な想像をする。その寺院についての心当たりはない。