地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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保原城

 梁川城を確認するためにいろい検索していたら、伊達市広報の「ふる里再発見」というコーナーに、「保原城跡の地籍図」が紹介されているのを見つけた。地籍図の水路と水田を染めて保原城の堀跡がイメージできるようになっている。
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 保原城は、かつては周囲を水堀に囲まれ、内部を土塁で曲輪に区切っていたと聞く。しかし、現況は、市街化によって遺構は消滅し、城ノ内などの地名に痕跡を残すものの、その面影をとどめない。
 他所者の散歩人にとっての手掛かりは、交差点横の中野病院の脇にある保原城跡の標柱と、公民館の位置が保原陣屋跡という情報ぐらいしかない。

 その情報で、この「保原城跡の地籍図」を見るが、位置関係が分からない。この解説から位置情報を拾うと「保原地区の旧保原町役場跡地周辺は、保原城という城跡」としかない。「ア」「イ」の地点から掘跡の痕跡が見つかったとあるが、これがどの辺りかは分からない。
 いろいろ確認してみると、他所者には無理だが、地元の方にとっては、これでイメージできる事が分かる。最近まで「元木溜井」という水田の灌漑溜池が残されていたらしいのだ。これが青で染められた堀に重なるのではないかと想像できるらしいのだ。
 更に、地元の方は、廃城後、本丸跡は畑地になり、堀跡の大半は水田になったという情報を持っている。

 他所者の散歩人は、そこに下保原村絵図の資料から情報を拾う。柵で囲まれているのが保原陣屋の北東隅から北に「溜井」が伸びていることをつかみ、公民館の位置が保原陣屋跡という情報を重ねる。そうすることで、青で染められた堀の南が、保原陣屋跡であり、現公民館だと想像することができる。
 この想像は、「保原地区の旧保原町役場跡地周辺は、保原城という城跡でした」ということと、中野病院の脇に保原城跡の標柱が建つことと矛盾がない。

 現公民館と村役場跡の境界線が保原陣屋の東側ラインと重なるらしい。また、「元木溜井」の「元木」の字名を地図で確認すると、その辺りが北側のラインかと思えてくる。そして、この辺りを歩いた感覚から、地籍図の南側の堀跡が現陣屋通りで、郭Ⅰと郭Ⅱの境界線が、現幼稚園付近か地図にみえる水路付近という想像を加えてイメージする。

 先の散歩で整理したイメージの誤りに気づく。
by shingen1948 | 2011-12-26 05:43 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)