地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城現地説明会に出かける⑧

 予定よりちょっとはやめに着いたので、説明会の前に本丸庭園に立ち寄った。案内板によると、「本丸跡では発掘調査が行われており、主殿跡など建物の遺構を25棟の他に井戸、石敷き中国銭や陶器なども出土しており、伊達氏時代の居館が確認されました。」とある。
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 その発掘調査が行われた本丸跡の資料が、今年9月伊達市文化講演会に出かけた時に頂いた「伊達の城」に、この「梁川城本丸庭園建物配置図」が載っていた。

 ここは、先に「梁川城④」として整理しているのだが、その時点ではこの資料のイメージは持ち合わせていなかった。
 ここに、福島県立博物館「 戦国の群雄 梁川城本丸・庭園跡(復元模型)」として展示されているという復元模型をイメージを重ねる。
 伊達氏の本拠であった梁川城(伊達郡梁川町)を発掘調査した結果、屋敷や馬屋と思われる複数の建物跡や池をともなう庭園跡が発見されました。この梁川城の時代に、伊達稙宗は陸奥国守護となり、また有名な分国法塵芥集を制定したといわれます。
 ただ、どうでもいいことだが、伊達稙宗が陸奥国守護となって、分国法塵芥集を制定したのは西山城だとの主張を聞いたこともある。

 梁川城は、概括的には伊達氏、蒲生氏、上杉氏、そして、近世の代官所としての歴史を刻むが、伊達氏の館というのが今回の発掘調査とのかかわりだ。
 伊達氏の時代の本丸のイメージも、9代政宗あたりの期、11代持宗あたりの期、12代成宗あたりの期、13代尚宗あたりの期、そして、この14代稙宗の期があるようだ。
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 伊達氏の館として、ここ心字池を含む本丸と北三の丸屋敷とその東側に続く平場、茶臼山北遺跡侍屋敷あたりを想定するのだろうか。そして、本丸東南の東昌寺跡の後ろにそびえる茶臼山館が詰めの城だろうか。
 その中の心字池は新しい時代であり、北三の丸の現況のイメージは、伊達氏以降のものなのかもしれない。
 今回の調査は、そんな中の茶臼山北遺跡侍屋敷から続き、北三の丸屋敷の「東側に続く平場」付近の調査だったということになるのだろう。
by shingen1948 | 2011-12-23 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)