梁川城現地説明会に出かける⑤~調査地点の意義を感じてみる③
2011年 12月 20日
ここも比較的新しい時代なのかも知れない。鈴木啓氏の梁川城跡復元図をみると、ここは、曲輪となっている。
梁川城全体ではなく、本丸のみに網目を入れているのも、それ以外は比較的新しい時代の遺構ということを考慮しているのだろうか。
発掘現場の状況だが、ここが、約60メートル四方に区画されていたということ(区画規模が比較的大きい)と、しっかりとした柱穴が多数見つかったという状況から、しっかりとした建物が建っていたことが推定されるとのことだ。
更に、出土品に位の高い人が利用する青磁盤なども確認されている。それらのことから、寺院か武家屋敷とみられる建物があったとしたということのようだ。
これ等の状況を踏まえて、今回の発掘成果を「本丸跡や周辺の寺院などとの位置関係を考えると、当時、梁川城周辺は東北屈指の町並みがあったことも想定できる重要な発見」と意義づけたようだ。
その出土品を確認する。
この日に撮った写真の後半は、カラーになっていない。これは、安物のデジカメのバッテリーが切れかかっているからだ。パッと写しては直ぐに電源を切るという事で、記録に間に合わせる。
青磁は、高位の人が権威の象徴として所有したものとかかわるという。また、茶臼は、当時茶をたしなむのは、武士や僧侶らだったはず。これらの状況とかかわって、伊達家の有力な家臣、あるいは有力者が住んで可能性が高いとした根拠の一つになっているように思う。
越前焼きは、福井県で造られた製品で、これは、高位の人の使用と限定できるものではないようだ。それでも注目されるのは、県北地方では、伊達氏と深く関わりのある遺跡だけで見つかっているということらしい。
この当時、日本海側の製品は、太平洋側ではあまり流通していないが、この越前焼は、桑折西山城跡でも見つかっていて、県北地方では、伊達氏とのかかわりを想像させる出土品ということらしい。
梁川城は、室町時代から戦国時代を中心に、伊達家の本拠として機能した城舘跡であることと、出土品の状況からも、「伊達家の有力な家臣」の居住も可能性の一つと推定するのだろうと思われる。
出土品に、かわらけがみえる。
この素焼きは、主に武家の儀式の際に宴の杯として使われるものだ。武家屋敷跡の可能性とすることとかかわる出土品なのだろうか。
瓦質土器片もみえる。こちらは、お寺のお堂などを想像させる出土なのだろうか。それとも、……。
近くの梁川中学校の茶臼山北遺跡では、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などの存在が想像されている。その状況等も考慮されているのだろうと思う。
出土品の壁土・釘などは、発掘された状況から、火災の痕跡があることとのかかわりで、興味がつながるものだろうか。