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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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梁川城現地説明会に出かける③~調査地点の意義を感じてみる

 輪王寺はこの辺だと実感を伴うイメージにしたかったのは、今回の説明会の意義について実感を伴った理解がしたかったからだ。

 今回の輪王寺付近の散歩と、東昌寺跡とされる梁川高校グランドとその南の高台「茶臼舘」、そして、侍屋敷跡から常栄寺跡にかけての梁川中学校との位置関係をイメージして、資料として頂いた「宮城県図書館蔵「梁川城」」の資料を眺めたかった。
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 絵図にある「町屋川」と塩見川を重ねてイメージし、それぞれの地点とこの絵図を重ね合わせてイメージすると、今回の調査区が、この絵図の覚範寺跡とされる地点に近いように感じる。

 説明会資料に、「15世紀を中心とした武家屋敷か寺院跡とのかかわりではないかと考えられる」とされる中の「寺院跡とのかかわり」の推定意図が、ここにあるのだろうと勝手に思う。

 梁川城について、「伊達市ホームページ」に解説される以下のこととの関連を想像する。
  政宗の孫である11代持宗から14代稙宗までの本城であった梁川城(伊達市梁川町)は、丘陵突端部を利用した平山城で、南は広瀬川の断崖、西は段丘、北に中井戸、東に金沢堀という大きな堀で画されていた。
  また、宮城県図書館が所蔵する「梁川絵図」などによれば、城の東側に東昌寺や常栄寺、覚範寺、輪王寺などの寺院が一列に並び、土塁と堀を方形に廻らしていた。近年梁川城は数度の発掘調査がなされ、当時の素晴らしい遺構が多く検出されている。
  11代持宗は大仏城(福島市杉妻町)に懸田氏とともに立てこもり、関東管領に反抗したという。彼は、後に梁川八幡宮を再建したほか、祖母の政宗夫人「蘭庭明玉禅尼」のため、嘉吉元年(1441)に、輪王寺を梁川に創建しているので、梁川城に居城していたことは間違いない。
  12代成宗も梁川城を本城とし、多くの献上品を携えてここから上洛し、将軍や公家たちに莫大な砂金や馬、太刀、名取川の埋れ木などを献上し、伊達家の勢力を示している。また古町観音堂や鬼石観音堂などを再建している。
 今回の発掘調査は、この「覚範寺」付近というこということだろうか。

 多分、専門的にはどうという事ではないのだろうが、散歩人としては気になるのが、「覚範寺」は、伊達政宗公の父輝宗公の戒名と同じという事だ。
 ただ、輝宗公の菩提寺の覚範寺は、米沢城の西方、斜平山のふもと遠山村に創建されたはずで、直接的には関わらないはずだと思う。
 それならと確認していくと、東昌寺の言い伝えとのかかわりで、この寺名を見る。
 「伊達5山のうち、3代目夫妻をまつった寺が、観音寺、興福寺という2寺だが、これが廃寺になって、資福寺という寺がこれ等を吸収する。更に、この資福寺から覚範寺が別れた」ということだ。

 これらのこととかかわるものかどうかは、分からない。 
by shingen1948 | 2011-12-18 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)