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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「会津松平家院内御廟」④

 今の興味は、神儒仏思想とからむ経過とか、もっと人間臭い部分とかだが、2008年9月にここに立ち寄った時は、会津藩体制とかかわるその表向きへの興味だった。
 立ち寄ったきっかけは、学生時代にこの「松平家御廟」へ続く道の左側の家のどこか忘れたが、家庭教師をしたその懐かしさからだった。その時に、この御廟の入り口までは来てはいたが、そのままになっていたことを思い出して、中に入って見たということだった。

 立ち寄った時の印象メモがある。
 それを確認すると、案内板の次の紹介をもとに、歴代藩主の墓を視点に散策していることが分かる。
 明歴3年(1657)、藩祖である保科正之の嗣子正頼が亡くなったとき、院内山を開き、当家代々の墓所とした。この墓所には2代正経から9代容保までの歴代藩主の墓があり、正経が仏式の他は神式で葬られている。
 他に、藩主の家族が西の御庭・中之御庭に埋葬されている。

 それは、今回初代藩主の墓所で神道廟所の特色を確認したことの延長としての見方とも重なる。

 神道廟所の特色は、手前に、亀に乗った藩主の事跡を記した碑石があり、一段高い箇所に石灯籠が並んで、その奥に「表石」が建ち、そのもっとも奥まった場所に藩主が葬られている円墳の頂上には、八角形の「鎮石」が置かれるということだ。
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 これは、3代・4代墓地の左手にならぶ5~7代の墓の「碑石」列だが、この「碑石」が印象的だったようだ。

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 この神道廟所は、2代の墓を過ぎ、暫く登り道を進んだ所で、3代の正容の墓からになる。3代の墓の南に進むべニア板が敷かれた道があったが、これを進むと4代の墓が並ぶ。


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 進み方によっては、4代の墓が外れの感じがするのだが、拝殿から登ってくれば、ここが正面となる位置になるようだ。
 この南側は道路が走っていて、管理用の入り口らしかった。この時には、国指定に関わる整備工事中であることの表示がしてあった。今は、整備された状態になっているのだろうと思う。


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 この時の現地での感覚では、更にその奥に8代の墓があるという感じだが、案内板等で確認すると、3代・4代墓地の左手にならぶ5~7代の墓との相対関係になっているらしい。


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 この散策時点での興味のメインは、5~7代の墓の北側の容保公の墓だったろうか。
 観光案内としては、松平容保公が明治維新に幕府側責めを一身に背負った悲運の藩主として紹介され、戊辰戦争の会津戦争の経緯を案内して、この容保公が眠る墓所として紹介される。

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 その北側がそれ以降の松平家の墓所となるという配置のようだ。
by shingen1948 | 2011-12-15 05:25 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)