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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「会津松平家院内御廟」③

 土津神社で感じた雰囲気は、どこかで国家が管理する神道の歴史へつながることを感じさせる。それに対して、会津松平家院内御廟の原形は、それとは対照的にもっと自然な信仰に近い雰囲気を醸し出しているように感じた。

 会津松平家院内御廟を開くきっかけになった保科正之公の嗣子正頼が亡くなられた時に、若松城下にあるすべての宗旨の寺の住職と、猪苗代・熱塩加納・柳津・津川(新潟県)などの寺の住職が読経に来ているというのも、そちらのイメージだ。

 院内墓地に決まる前の候補墓地も、どちらかといえば自然な信仰に近い雰囲気だと勝手に思う。
「会津松平家院内御廟」③_a0087378_504250.jpg
 「かみやましろのもり~葵徳川将軍、秀忠の四男正之の生涯と土津神社」によると、嗣子正頼が亡くなったときの保科正之公が院内山を開く前の候補墓地は、宝積寺とのことだ。
 この寺は、小田山の忠霊塔の近くの寺だろうと思う。小田山を散歩した時の写真を確認したら、この写真があった。
 近くには、葦名氏代々の墓所があり、小田山頂上付近には、重臣達の墓地があり、更に、山の南側には、保科正之公が開いたという墓地が広がっている。

 「会津若松市のホームページ」には、保科正之公の会津移封に伴う御供の寺が紹介される。想像するに、多くは、保科家に関わる寺と母親に関わる寺のように思う。保科家に関わる寺は、更に詳細が紹介される。
 ○ 建福寺は、信州高遠藩主保科家の菩提寺とのこと。
 寛永20年(1643)保科正之公に従った鉄舟和尚により開山となり、延宝8年(1680)に現在の地に堂塔伽藍を建立。その当時の住職が退山して、貞享2年(1685)3代藩主正容公が、江戸芝東禅寺の黙水和尚を迎えたとある。
 ○ 善龍寺は、保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所とのこと。総州(千葉県)から信州(長野県)高遠に移っていた寺が、保科正之公の山形~会津移封に伴って移ってきたとのこと。城南花畑に建立されていたのが、現在地に移ったとある。
 ○ 大龍寺は、当時は慶山寺という無住の寺で、そこに機外禅師が山形から正之に従って会津入りして開山したとのこと。

 大法寺と淨光寺というもう二つの寺が紹介されるが、ここではその詳細を解説しない。こちらが、母親に関わる寺ではないかと想像する。
 淨光寺は、母菩提寺とあるが、地図で確認すると淨光寺は2か所ある。大法寺の方は保科正之お供寺としかないが、こちらではないかと勝手に想像するのは、その宗派だ。

 いずれにしても、これらの動向は、どれも当時の自然な宗教観に近いものだったのではないかと感じる。
by shingen1948 | 2011-12-14 05:20 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)