人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

「会津松平家院内御廟」②

a0087378_4242655.jpg
 保科正之公が院内山を開いた時点では、保科正之公の嗣子正頼の墓を西の御庭の正面に祀り、中の御庭には、それ以外の子女を弔うというイメージだったのだろうか。
 この保科正之公の嗣子である正頼が亡くなるのは、振り袖火事の延焼をくい止めるために奔走したことが原因とのことだ。
 会津藩『家世実紀』には、亡くなった時に、若松城下にあるすべての宗旨の寺の住職と、猪苗代・熱塩加納・柳津・津川(新潟県)などの寺の住職が読経に来ているという記録が残されているという。

 そして、中の御庭には、正之公の子供である5男正純の墓と正之公3女菊姫の笠つきの達性院の墓が並び、更に、正之公側室お塩の方徳性院の笠つきの墓が並ぶ。

 これが、原形のイメージだろうか。個人的には、土津神社を訪ねて描いた保科正之公のイメージとのギャップを感じている。
a0087378_4264846.jpg
 その原形から現在の形に移る経緯を想像すると、次に中の御庭に、生母栄寿院の墓が建つ施主は3代正容公だろうか。
 その前後に2代藩主正経公の墓が建つ。これがその2代藩主墓所で、仏式とのことだが、墓碑は、神式の靈神碑に近い。、施主は同じ3代正容公であったのだと思う。


a0087378_4342093.jpg
 生母である本妙院を西の御庭に弔ったのは、4代容貞公だろうか。施主とのかかわりでみれば、この前後で3代正容公の墓が建つ。
 これは、その3代の墓所を、現在の拝殿方向からみている。

 ここらが、初期の会津松平家院内御廟のイメージなのだろうと想像する。
a0087378_4385528.jpg
 ただ、この墓地を歩いたイメージでは、2代墓所から3代墓所の間が空き、3代以降の墓所が、統一された空間というイメージになる。


 かかわりを確認していると、3面記事のような面白さに出逢う。見つけたのは、「会津事典」の「塩見伊知」の項に解説されること。

 この中の御庭に祀られる4代容貞公の生母栄寿院は、享保8年(1723)に13歳で3代藩主松平正容の側室となられた方で、側室になった翌年に男児を出生している。これが、4代容貞公とのことだ。
 話は、そこまでではない。男児を出生の翌年には、家臣笹原与五右衛門忠一に妻として下げ渡されたとのことだ。これが、「拝領妻」とのことで、3代正容公の代には多かったらしい。
 再び伊知の人生が大転換するのは、正容の世継ぎである男子が次々と早死し、伊知が城内に残してきた男児のみになってしまう事とのことだ。
 世子の母として、城内へ召し返されたのである。この男児が4代目容貞公で、伊知は、藩主の母という栄耀栄華の立場となるが、わずか22歳でその波乱の生涯を閉じたとか。

 これで、本妙院施主は4代目容貞公と想像したが、公は西の御庭に弔うことにこだわったのではないかなどとも勝手に想像する。

 土津神社を訪ねて描いた保科正之公のイメージとのギャップを確認しておく。
 それは、初代が我が子と家族を仏式で祀り、2代が初代を神道で祀ること。そして、3代正容公は、その先代を仏式で祀ること。更に、この3代正容公を4代目容貞公が神道で祀ることと、同じ4代目も、生母は仏式で弔っているということだろうか。
 ここから、「かみやましろのもり~葵徳川将軍、秀忠の四男正之の生涯と土津神社」に神道作法のみにするのは、5代容領公からだと紹介することから勝手な想像を膨らます。それは、4代まで先代藩主を神道で祀る意識にも、儒教、仏教、神道の習合的なものが働いていたのではないかとも思えるということだ。
by shingen1948 | 2011-12-13 05:20 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)