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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津松平家院内御廟

 案内板によると、松平家院内御廟」は、明歴3年(1657)、藩祖である保科正之の嗣子正頼が亡くなったとき、院内山を開き、当家代々の墓所としたとのことだ。
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 ということは、保科正之公が直接かかわる墓地の原形は、中の御庭・西の御庭ということになるようだ。
 西の御庭の正面には、保科正之公の次男で嗣子正頼の墓で、その奥が拝領妻で有名な3代正容公側室で、4代容貞公の生母である本妙院の墓とのことだが、そちらには立ち寄っていなかった。
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 これは、中の御庭で、右側が20歳で亡くなった正之公の5男正純の墓で、左は3代正容公の生母栄寿院の墓とのことだ。笠つきの墓は、右が正之公3女、菊姫の達性院、左が正之公側室、お塩の方の徳性院ということのようだ。

 土津神社を整理したその延長にここを整理すればいいと思っていた感覚では、正之公をはじめ、4代藩主までとかかわる方が、仏式で弔われているという事が気になる。
 「かみやましろのもり~葵徳川将軍、秀忠の四男正之の生涯と土津神社」によると、正之公は、嗣子正頼が亡くなった時に、会津へ葬りたかったとのことだ。
 その墓地として、最初に宝積寺を選んだという。それが、この院内山を開くことになったというのは、千日念仏を行った小庵の跡がいいという紹介があってのことという経緯とのことだ。
 これらは、正之公が仏式をイメージしていることを示すものだ。しかも、その位牌は、淨光寺に安置し、領内の僧侶の読経で法要は執り行われたことまで紹介される。

 土津神社の整理につながるのは、保科正之公がこの時に相談したのが儒官土岐元長であることと、尾張大納言義道公が亡くなられた時に儒道の作法で葬られたことに習ったということだろうか。
by shingen1948 | 2011-12-12 05:25 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)