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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島県が廃炉への考え方を示した⑥

 大震災で、飛び出した本を片づけている中に「わたしたちの郷土【福島県】」というのを見つけた。子どもが使っていた「小学校4年生の社会科副読本」らしい。
 原発についてどのように教えられたのかなという興味で開いてみた。

 「電力をおこす」の「福島県の電力」の項に、「福島県には、電力を作る発電所がたくさんあり、その種類もおおいこと」、そして、「つくられた電力は、県内だけでなく、関東方面にも送られていること」が簡潔に表現されていた。
 「原子力発電所」については、次のように解説されていた。
 原子力発電所
 東北で初めての原子力発電所が、東京電力株式会社によって双葉郡大熊町・双葉町にできあがり、1971年(昭和46年)から電気を送り始めました。さらに、第二発電所が富岡・楢葉町に建設され、今では原子力発電は、県内の発電量のおよそ62%をしめています。今後も、電気の使用量がふえていくことが予想されるため、東北電力では、浪江町・小高町に建設の計画を立てています。
 恥ずかしながら、最後の2行の「今後も、電気の使用量がふえていくことが予想されるため、東北電力では、浪江町・小高町に建設の計画を立てています。」ということについては、全く知らなかった。
 発行日を確認すると、平成11年3月改定版。平成11年以降の小学校4年生の常識を知らなかったということだ。

 この情報とつながるのが、12月5日、南相馬市議会で、東北電力・浪江小高原発の建設中止を求める決議案が可決されたというニュースだ。
 反対→誘致→反対 脱原発の背景は…(FCT)」の報道に、その経緯にかかわって、以下の経緯を解説する。
 ~前略~
 浪江小高原発は、強い反対の声もありながら、用地買収が着々と進められてきました。
 その背景にあったのは、「原発マネー」と「安全神話」でした。
 私たちがむかったのは、市内の仮設住宅。
「人間の欲です。そういうのがでてきましてね…」
 こう語るのは、市内・小高区から避難する兼業農家のSさん。
「(当時・農協の)組合員の総会があったんですよ。そのときに原発建設反対の緊急動議が出された。そこで満場一致で反対が出された」
 しかし、いつしか多くの人たちの気持ちに変化が出てきました。
「現実に声を上げて反対ということは酒飲み話では出てきたが普通の会合であまり聞かない話」
 いまや、多くの人が避難する原因になってしまった原発。
 それがなぜ、反対から誘致に傾いていったのでしょうか。
「浜通り、相双地区がこれといった企業もなく働く場所もなかった時代に、東京電力が原発を作ったらものすごい雇用の創出になった。それがみんなね、このへんは出稼ぎをやっていた、出稼ぎをしなくてそれよりもいい賃金がとれる、きそって東電の建設に従事していた」
 そんな原発をわが町にも、そんな思いだったのかもしれません。
 Sさんも当時、原発の建設工事に従事しました。
「私も日雇いで通っていた、そのときの安全神話は100パーセント信用していた」
「原発マネー」と「安全神話」でいつしか原発誘致に傾いていったのです。
 ~後略~

 南相馬市議会で、東北電力・浪江小高原発の建設中止を求める決議案が可決されたというこのニュースは、「脱原発」の動きの視点から報じられている。
 しかし、視点を変えれば、少なくとも平成11年の小学4年生でも常識として学習していた東北電力・浪江小高原発の計画は、福島県がプルサーマル計画の受け入れを拒否している間も、中断されることなく着々と進行していたということも示している。
 そして、それは、今回の事故寸前までには、電源三法交付金制度による札束のばら撒きが始まっていたということで、もう誰にも止められないというところまで進んでいたことを示す情報とも見れそうだ。
by shingen1948 | 2011-12-09 06:13 | ☆ 地域・自治話題 | Comments(0)