地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土津(はにつ)神社⑥~土田堰用水②

 「民間払い下げとなって人手に渡った土津(はにつ)神社地を、地元の有志が旧会津藩領全域で募金を募って買い戻して、神社の社地とするために松平家へ寄与する」
 土津神社の観光案内とのかかわりでみれば、これを土田村民の忠義と、名君が我が郷土を選んだという郷土に対する誇りと捉えればよいのかもしれない。

 しかし、実際にこの神社の風景を見ると、もう一つの観点として、「豊かな地域を実現した土田堰用水建設に対する感謝」というのも重要なのではないかと思えてくる。
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 土田堰用水は、猪苗代湖に流入する最大の河川である長瀬川から取水する。
 この長瀬川にかかわる他の用水とのかかわりについて、「猪苗代湖およびその集水域に於ける水利用(吉越昭久)」で確認すると、土田堰開削以前の灌漑地は、「上山下堰用水路」にかかわる灌漑地域だった事が分かる。
 この上山下堰の取水口は、土田堰用水の約1.2㎞下流長瀬川右岸とのことだが、この取水口も、酸川と合流する地点より上流部で取水するらしい。酸川は、温泉水によってpH2~3の酸性になっていることと、毒性の金属イオンが含まれるので、灌漑用に適さないためだとのことだ。
 この幹線水路は、長瀬川に沿って南流し、堅田を通り中小松から猪苗代湖に至るという。
 「新編会津風土記」及び「福島県耶麻郡誌」によると、この用水は、承応2年(1653)に堰守であった小桧山半内らによって工事に着手され、人夫を約75000人動員して7年後に完成。約380ha灌漑が可能になったという。
 恐らく、この堰の建設でこの地域に豊かな恵みが与えられたのだと思うが、更に20年後の延宝元年(1673)に、その長瀬川上流約1.2㎞から取水した土田堰用水が、磐梯山麓に開削されたということのようなのだ。
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 現在、この神社から下流にかけて土田堰沿いの道が自然歩道になっているようで、先に整理した磐梯山麓の風景には、いつもの堰が写り込んでいる。
 
 この磐梯山の南麓は、火山泥流や火山岩屑物で構成されているため、漏水が多いので、管理も大変だったらしい。開削の難工事も推測できる。
 特に、明治21年(1888)磐梯山の噴火では、用水路が埋没して、取水口を変更せざるを得なくなるなど、管理には多くの労力を払ってきたという。

 最近は、昭和35年に県営灌漑排水事業としての水路が改修されたという。昭和42年には、約1.2㎞の改修が完成し、また排水路もその後整備され、漏水などは少なくなったとのこと。
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 なお、これ以前は、磐梯山東斜面の琵琶沢の水と、今泉付近より長瀬川の水を取水する長瀬堰及び中小松にある六ツ成堰による灌漑とのこと。ただ、水質のかかわりで、土田堰用水・上山下堰用水の改修後に、改修工事が行われたので、最も古くから耕作されていた地域が、最後に改修されたという。

 この碑がどの段階の改修のものかは確認していない。また、現在、概念的にはこれら3つの堰の総称としての土田堰があり、これらが、この地区の豊かな実りと深く関わり合っているような気がするが、これも確認はしていない。
by Shingen1948 | 2011-11-26 06:05 | ◎ 水 | Comments(0)