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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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土津(はにつ)神社③~保科正之公墳墓

 神社わきの参道を奥に進んでいくと、保科正之公墳墓に着く。墓碑銘は、「会津中将源君之墓」。
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 その門前に案内板が建っている。
 町指定史跡
 保科正之公墳墓
 昭和60年3月28日指定
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 会津藩初代藩主保科正之公は、寛文12年(1672)12月18日江戸において、62歳で亡くなられた。正之公は「我死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていたので、2代藩主正経は遺言どおり墳墓の造営にあたった。
 最初南北60間東西50間を整地し、その中央に小屋を建て棺を安置し、その周辺南北30間東西32間に柵を作り、四方に鳥居を立て、3月26・27の両日にわたって葬儀をとり行った。その後、棺の所に円墳を築き頂上に土津神墳鎮石」と刻んだ八角形の鎮石を建てた。

 猪苗代町教育委員会
燈篭がずれているのは、今回の震災の影響だろうか。
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 こちらが、案内板にいう「円墳の頂上に建てられた『土津神墳鎮石』と刻んだ八角形の鎮石」だと思われるが、無事のようだ。

 「自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていた」ということについて確認していくと、自己の霊魂を祀る生祀の計画ということとかかわるらしい。素人考えでは、「自らの埋葬地」というより「磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」ということに強い意味があるように感じる。
 これは、中国思想の影響を受けた神道の影響で江戸時代に増えたとのことで、長命を得るため、あるいは死後に神となるために行われたものという。
 保科正之公の場合、直接的には1671年に儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を京都の自邸の垂加霊社を祀ったという「山崎 闇斎」とかかわるらしい。
 「山崎 闇斎」の項を確認していくと、寛文5年(1665年)に、会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、藩政への助言者として、領内の寺院・神社の整理等と活躍しているらしい事が浮かぶ。

 実際には、2代藩主正経が、遺言に従ってこの地に墳墓を造営し、その後に神社が造営されることになるようだ。これは、正之公が生祀の計画が実行される前に没したためということらしい。
 なお、これ以降、第2代正経を除いて、会津藩主は神式で祀られることになるらしい。

 この生祀に関して、1797年に松平定信公が奥州白河城に自分の生祀を成立した例があるとの情報を見る。
by shingen1948 | 2011-11-22 05:21 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)