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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大森城裏口付近を散歩して

 大森城の南西周辺散歩の中で確認したのが、城裏口の石造供養塔(板碑)だ。その前には、城山縁で確認した城山供養塔の板碑、北舘供養塔を確認している。これらは、大森城が創設されたとされる天文11年(1542)より以前に建てられたものだ。
 複数の板碑群を確認することで、何となく厚みのある散策をしたような気分になっていたのだが、半沢氏のフィールドワーク地図を確認したら、この近所にはまだ中世の板碑群が建っているようだが、それらは見落としているようだ。
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 これは、大森城を西側から眺めている。右手の小高い山が、大森八幡神社の裏側だ。
 大森城の散歩を裏側から整理してくると、視野の広がりのようなものを感じる。
 その一つが、下鳥渡山王道から福島道にかけての道筋沿いの風景と大森城の散歩を重ね合わせてイメージしていることだ。


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 これは、散歩の中で撮った天神社だ。家に戻って「半沢氏のフィールドワーク地図」と見比べていたら、その隣の「龍音寺が別当だったが、明治期の神仏分離政策によって分離されたもの」とのメモがあるのを見つけた。散歩では、その龍音寺は見逃したなと思いながら、芋川氏の菩提寺が明治期に廃寺になったのも、この神仏分離政策だったことを思う。

 その「半沢氏のフィールドワーク地図」の「好国寺」に、「再興 山田意休夫妻墓碑 宝永元年(1704没)(長尾久右衛門もと米沢藩上杉氏家臣山田の開拓者)。長尾久右衛門大学の開拓として「寛永7年(1630)頃上杉氏の新田開発奨励政策により帰農したという。猪鹿防除のため鉄砲役免除」とあるのを見つけたことで思うこと。
 それは、大森城は漠然と伊達氏とのかかわりをイメージしていたのだが、少なくともこの城の南西付近は、上杉家臣団とのかかわりのイメージが強くなったということ。

 考えてみれば、大森城も最終的に芋川氏の時代に廃城になるので、少なくとも大森城下の痕跡も、上杉家臣団とのかかわりで大きな変革はストップしているはずなのだ。
 「大森城の構成」でも、慶長5年(1600)の栗田氏以降に山麓の整備が大きく展開したのではないかとみているらしい。山麓部の発掘調査が行われていないので慎重なものいいだが、計画的な街区画割りの特色は、織豊期の特色を示し、この時代に日常的な諸機能は山麓部に移動してきたとみているようだ。
 それで、大森城は近世当初まで使用されたが、天文期の基本プランの雰囲気を留めていることになったと見ているようだということとかかわりながら、「天地人の時」のカテゴリーを意識している。
by shingen1948 | 2011-11-12 06:25 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)