地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大森城 ⑤~ 常栄寺の旧地を確かめる

 「安江繁家24」で大森城に出かけたのは、芋川氏が大笹生の東禅寺の4世とかかわって、菩提寺として常栄寺を開基したとする情報を得たからだった。
 
 しかし、この時点で肝心の常栄寺の旧地が分かっていない。案内板の説明から、観音堂脇の大森城主として初代正親・二代元親・三代綱親の墓碑が、昭和36年9月に左手下の椿館の墓地から移転改葬されているということが分かったに過ぎなかった。
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 その常栄寺の旧地が、「信夫之府城:大森城フィールドワーク」の地図にプロットされている。

 先の散歩でその北側の風景はイメージできている。城山供養塔をみつけ、それとイメージした北側の風景の中で、常栄寺の旧地が分かるかもしれないと思った。


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 城山供養塔は、北の道筋の次の道筋にあった。

 その脇に建つ案内板では、常栄寺跡供養塔となっていて、そこが、常栄寺境内であることが解説されていた。この案内板の解説で、常栄寺旧地はここであることが分かった。
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 <旧跡>常栄寺跡供養塔
 このあたりは、城山に居住した芋川氏の建立と伝える常栄寺の境内である。
 この碑は、その寺の境内の一部に建てられた板石の塔婆で「板碑」といわれる供養塔である。中央には正嘉2年大歳戊午9月3日と読まれ向って右下方には右志者為慈父也とあって、なき父の供養のために建てられたものであることがわかる。碑の高さは112㎝である。正嘉2年(1258)は、国々に盗賊がはびこって、心の落ち着かない不安な年であったという。そのためか同年(正嘉2年)記銘の板碑は上鳥渡地区に2基も残っている。
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 ただ、この解説でこの供養塔と常栄寺は関わるという誤解を与えないかと気になった。

 この供養塔は、常栄寺建立前にあったはずで、常栄寺とは関わらない。常栄寺の開基は、解説にあるように芋川氏とのかかわりだ。
 廃城になっていた大森城が、慶長3年(1598)上杉氏が会津に入った時に復活する。この城代は栗田氏で、芋川氏はこの時点ではまだ白河城代だ。
 その芋川氏がこの大森城の城代となるのはその後で、常栄寺は、その芋川氏が大笹生の東禅寺の4世とかかわって、菩提寺として開基されるということだ。
 従って、この供養塔建立が建立された正嘉2年(1258)には、常栄寺はまだ存在しない。
 それどころか、この時代は鎌倉中期で、将軍宗尊親王、執権北条長時の時代だ。この大森城が創建されたとする天文11年(1542)よりも古い話だ。
 なお、案内板に解説される国々に盗賊がはびこる時代とあるが、その背景に、建久元年(1190)あたりから、飢饉・大洪水が続き、慢性的な飢饉に悩まされた時代ということがあるらしい。
Commented at 2011-10-27 22:37 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2011-10-27 22:43 x
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Commented by 山田久夫 at 2011-12-20 20:50 x
いつも感心して拝見しています。常栄寺跡の板碑の年号から、通説の城山の歴史に疑問を持たれたようですね。私も、疑問に思い色々研究しました。鎌倉時代の陸奥守の舘跡ではと思っています。
大仏城は陸奥国府ではないか。大同五年の太政官符によれば、陸奥国府は信夫郡に有ったと考えられます。
Commented by shingen1948 at 2011-12-24 06:18
散歩の中では、具体的なことを特定したりすることはできませんが、少なくともこの板碑は、城山の歴史以前に歴史を刻むものということは確実ですよね。
しかも、それは板碑を建てて供養ができる方が存在するということでもあり、この東斜面には古墳が築かれていることは、その古墳が見える位置には集落が存在していたということでもあるということでの思いが広がり、それを時間でつなぐという念頭操作は結構楽しいものですね。
by shingen1948 | 2011-10-27 05:20 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(4)