地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

大森城④

 西側斜面に伸びた外郭線は、さらに主郭1.2を越えて南舘にいたった。城南側までもひと続きにまとめていたのである。…(中略)…。斜面部の連続した帯曲輪構造から、丘陵全体に広がった諸曲輪を外部の帯曲輪で包むことによって城城を一体化した大森城の基本プランが想定される。

 「大森城の構成」が紹介するこの帯曲輪と公園の散歩道が重なると思ったのは、主に「福島市の中世城舘」の中の「大森城地形図」と「大森城略測図」を重ねてみての感じだった。
a0087378_2155276.jpg
 更に、これが、太田氏が「信夫の府城:大森城フィールドワーク」で紹介する「空ぼり跡」とも重なっているように思うのだが、どうだろうか。

 なお、ここでは、「大森城の構成」が「主郭1.2」とし、「大森城地形図」が「主郭」とする平場は、「本丸」とされる。また、先に「北舘」とされた平場は、「ニの丸」とされる。更に、南舘は、<出丸(ひめごてん)>とされる。
a0087378_2191513.jpg
 公園広場から降りて、西側の散歩道筋を確認する。


a0087378_2212510.jpg
 実際に歩いてみて、この道筋と「大森城の構成」が紹介するこの帯曲輪とが重なるとの感覚は得られる。
 ただ、ここが空掘りだったかどうかというその痕跡は残っていなかったような気がする。
 
 先に主郭南西隅で確認した道筋にたどり着くということは、確認できた。


 「信夫の府城:大森城フィールドワーク」に目が言ってしまったが、本当に探していたのは、大森城の本丸の舘は二階建ての根拠資料だった。
 随分古い話になるが、半沢氏や太田氏などの有志の方が「福島の歴史学習」の講座を受講させていただいたことがあった。その中に、「伊達天正日記」をもとに、大森城の話があったことを思い出した。
 その記載の中から大森城が2階建てであったことが分かるというような事が印象的に残っていたのだ。これを、確認しようとしたのだ。

 これも確認できた。
 それは、天正16年5月4日の部分だった。
 この2年前時点で、二本松畠山氏を会津へ追い、伊達成実は二本松を与えられる。かわって大森城主は、片倉小十郎が居城する。
 なお、この年(天正16年)の4月には、八丁目城に隠居していた伊達実元が没し、陽林寺に葬られている。
 その5月には、伊達政宗が相馬氏の田村氏侵攻を防ぐため大森城に入り、約1ケ月ここに滞在して東安達や郡山周辺に出馬している。
 そういった状況設定の中での話だ。
 「(伊達政宗は、)軍議の後、夕方に雨がやんだので、大森城の「御二階」から梅雨空を払いのけるように鉄砲を放つ。家臣の横尾修理も相伴して空に向かって鉄砲を撃つ」というようなことが記述される。
 これで、少なくともこの時点の大森城は二階建てだったという事だったことを思い出したのだ。

 この「信夫之府城:大森城フィールドワーク」の地図は、この資料を探している中で見つかった。記憶にはなかったのだが、一緒に配られていたようなのだ。
 ただ、この地図を見ていたら、上記堀の部分だけでなく、「常栄寺あと」「普門寺あと」等、気になったがそのままにしていた事のヒント位置がプロットされているのにも気がついた。こちらも確認しておきたくなった。
by shingen1948 | 2011-10-25 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)