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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大森城④

 「城の本丸を囲むように築かれたこの空濠は、深さ4m、幅6mと推定されている」という情報をもとに、主郭の周りをぐるりと周りはじめると、その北側で自信を失う。
 その西側も、現在、震災でやられたのだろうか、都市公園のトイレ工事中の状態だ。

 北舘の北端部には展望台が建つが、これも城とはかかわりがないという案内板が建つ。
a0087378_546917.jpg 
 「伊達の城」の講演会で頂いた「大森城跡複合図」の資料に調査地点がプロットされる。その位置は、北舘の北端部にあたり、現在は展望台が建っている。解説はないのだが、これとかかわる発掘調査だったらしいことが、「大森城の構成」にある。
 「大森城の構成」には、その時期と調査理由、それに、その発掘の成果について以下のように記す。
 平成5年度に頂上の「北舘」北端部に展望台建設が計画されたため、初めて大森城の調査が実施された。調査の結果、土抗2基、ビット12が検出され、城跡に関連する遺物としては16世紀に比定される瀬戸産の陶器片が出土している。

 ここから、経緯が推定できる。
 公園整備計画に展望台の建設が設計され、これによって「北舘」北端部が破壊されることになった。そのために、発掘調査が行われたという事なのだろうと思う。
 自分の感覚では、畑耕作などの人の営みによって破壊されるということは、これもまた歴史ということで、感覚的に素直に受け入れやすい。しかし、中世城郭に都市公園を整備するため、史跡を破壊するという事が、人の営みによる破壊とは納得し難いという感覚がある。
 この地に住んで随分長いのだが、まだこういったことに違和感を覚えるのは、感覚が硬直しているのかもしれない。
 なお、図には調査区右隣の訳ありげな平場がみえるが、これは浄水道の設備に関わるものだ。
a0087378_5585267.jpg
 「伊達の城」の講演会で頂いた資料に、「大森城遺構配置図」が載っている。講演会で説明はなかったが、「大森城の構成」がいう「土抗2基、ビット12が検出され」という事と一致しているように見える。+印で囲まれた部分が、展望台が建っている部分だろうか。検出された事柄をどう解釈するのか、また、この建築によって周りの地形をどの程度破壊されたものかは分からない。
 図が小さくて見えにくくなっているが、基本層序が以下のように記される。
 LⅠ 褐色シルト(7.5YR4/4)耕作
    土礫混入
 LⅡ 橙色砂礫(7.5YR7/6)地山

a0087378_635535.jpg
 この遺物の図示も、「大森城遺構配置図」と同様に説明はなかったが、これも「大森城の構成」でいう「16世紀に比定される瀬戸産の陶器片」ということと一致していると思う。
 16世紀に瀬戸産の陶器を所有できた方の存在がかかわるという程度の読み取りしかできない。
a0087378_618182.jpg
 発掘調査との関わりのない公園設備としての展望施設から、手持ち資料と照らし合わせながら北西方向の縁を確認しながら眺めてみるが、生い茂る草木で地形的な感じは曖昧だ。

 とりあえず、「大森城の構成」の解説と「伊達の城」の講演会資料図を関連付けてみた。
by shingen1948 | 2011-10-21 06:12 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)