大森城④
2011年 10月 19日
「大森城跡を訪ねる」では、案内板をもとに「城の本丸を囲むように築かれたこの空濠は、深さ4m、幅6mと推定されている」ことを整理している。
これは、その土塁の虎口より東側の部分だが、先の整理時点よりも整備されていて、その様子がよく分かる。この延長線上の堀を想像する。
まず、堀の中を覗いてみる。南側を覗いてみると、虎口を挟んだ南側の土塁。
そして、その堀の東側の延長線上に覗いてみる。これが堀の中の風景だ。
このイメージを持って、土塁の外側に出て東側の延長線上を眺めてみる。
左側に写るのが土塁で、右側が公園用の道筋だ。観察と「城の本丸を囲むように築かれた」という情報を頭に置いてこの風景を見れば、この土塁を削り取って平坦化することによって、公園用の道筋ができた事を想像することは容易だ。
「大森城の構成」では、以下のように解説する。
堀・土塁断面の方向と曲輪下端部の観察から、堀は曲輪1・2の塁線際を囲む形で伸びていた復元できる。曲輪1北面部分では堀はまったく観察できないが、帯状に北面を包む削平地が元の堀幅痕跡を示すと思われる。※1文目が、ねじれているが、「堀・土塁断面の方向と曲輪下端部の観察から、堀は曲輪1・2の塁線際を囲む形で伸びていた」ことと、現状の観察から念頭によってその土塁が「復元できる。」と解釈する。
ここは、もう直ぐ曲輪1へ回り込む付近だが、道幅等から考えて、堀と土塁を削り取ってしまったのではないかと想像する。
これは、主郭へ回り込んで直ぐの近くにある曲輪1.2の間へ一気に登るための公園用の道路。この下に登り道はあるが、そのまま一気にこの主郭に登る散歩道らしい。
最近気付いたのが、福島の公園の考え方だ。これが、他とは違う。
例えば、西山城などでは、公園化するためには遺跡を調査し、それをもとにして公園を設計するということになるらしい。
ところが、そういう感覚では、福島の城郭のイメージを膨らますことはできない。
福島の公園化の手順は違う。
まずは、公園設計が先にあるみたいなのだ。その基本は、大体が都市公園の設計のイメージらしいのだ。もし、そこに遺跡があるならば、それは工事で破壊されることになる。それで、遺跡を調査することになるということのようだ。
つまり、遺構と公園設計とはかかわりがないことが多いようなのだ。
素人には、そういう事情が分からないので、公園の道になっている削平地が堀跡と推定するのが難しいのだ。先に訪れた時にも、そうではないかとは思ったのだが、そのことに自信が持てないでいたところがあって整理していないということもある。
最もイメージするのが難しいのが、北舘と曲輪1.2の間にこの堀をイメージすること。
都市公園としては、この北舘と本丸の間をなだらかなスロープで結びたかったらしい。設計者は、防御しようとする古人と念頭において熾烈な戦いをしたに違いない。現代の設計者が勝利し、古人の防御の姿勢は完全に打ち砕かれたその風景とも見える。
なお、この北舘からも主郭に直接登る階段も取り付ける。図と見比べると、東側から北側の塁の縁に沿って西側に進み、中央付近で主郭に向かう虎口があったのかも知れないとも思う。
大胆な破壊を見ていると、その想像も段々荒々しくなる。