平田舘②
2011年 09月 26日

築城者情報としては、「福島市の中世城舘」も「信達一統志」「信達ニ郡村誌」をもとにしていて、文治年間に平田五郎の築城ということで、今までの整理と変わりない。
この舘の位置は、繰り返しになるが、摺上川右岸中位砂礫段丘面の北端で、五郎兵衛舘とは同面にあたる。その五郎兵衛舘からは、その東南約1.3㎞の位置になる。
ここの前面には、下位砂礫段丘さらに自然堤防で、比高差は10mあって、自然要害となっている。

新しいのは、地籍図から掘と土塁、それに開口部を推定する情報だ。
南側の細長い地割で、西側でL字形となる畑地が掘跡と推定している(同誌では、北端とするが、自分の読み取りでは、西側だと思うので、勝手に直している)。その中央の切れ目が、開口部で虎口の推定のようだ。その内側の南~西辺と南~東辺の草地の地割りが、土塁跡の推定で、現況の土塁跡は、その東辺の部分で、溝が掘跡の部分と推定されるようだ。

南面にあたる部分だが、そういわれてみれば、一段高くなっているように感じる部分の南側が道筋になっているような気がする。
その一段高い部分に土塁を想像し、この道筋に掘跡を想像するのだろうと思う。
その規模は、地籍図から最低東西約95m、南北約75mを測定し、「信達一統志」と地籍図から方形単郭を推定している。
もう一つの新しい情報は、北側の「高石仏石碑群」とこの舘主とのかかわりに関する情報だ。8基の「高石仏石碑群」の中に建治年間の銘が確認される石碑があるという。
昭和36年に遺跡保存会が、倒れていた石碑を現在の位置に整理した際に、平田五郎の墓と伝承されている碑の付近から人骨が入った玉石を加工した納骨器が発見されている。石碑がある場所も高所であり、北側の道は東側の土塁を分断したものと考えられる。
なお、「信達一統志」の記載から、本館の西約100mの畑地を門吉原と呼び、大鳥城が栄えていた時期の処刑場の言い伝えを紹介する。
また、「本館の南西約500mの地域は奈良・平安時代の遺跡と推定される北遺跡」と紹介するが、これが下白山の地だろうか。それなら、香積寺の「石造供養塔群」につながる。