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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大鳥城と芋殻館

 「福島市の中世城舘」の「大鳥城」の「大鳥城主信夫佐藤氏」の項で、その城主について14世紀後半に有力な城郭として機能していた事を定説に沿って整理する。
 気になったのはその後半で、発掘調査によると、この本丸部分が15~16世紀に平坦化=削平化による拡張が進められ、城郭として一層の整備をみたというのだ。
 そして、その主について以下のように記述する。
 信夫庄西部に15世紀まで勢力を保持した二階堂一族であるか、それとも伊達郡から信夫庄へと南北朝期に勢力を扶植した伊達一族であるか、この点については、にわかに断定を下すことを保留しておく。
a0087378_561184.jpg 近辺を散歩した者にとっては、つい古舘の主である飯坂氏をイメージしてしまう。
 そこまでだったが、昨日、「伊達市歴史文化講演会」を覗いたら、「信夫郡の中世城館と伊達氏」の中で、伊達氏とのかかわりについて比重をかけての報告がされていた。テーマが「伊達の城」だから当たり前かもしれない。


 さて、館の整理に息切れしてきているし、この舘に登って確認していないのだが、ここで「芋殻館」を抜くこともできない。先に「ふくしまの歴史」をもとに「芋殻舘」として整理している。この時には、いろいろな舘主の説も含めて整理しているが、「福島市の中世城舘」では、こちらは佐藤氏にこだわった整理になっている。
 佐藤庄司の家老職芋川主膳が築城し、「信達一統志」の説をとって、佐藤氏の家臣杉田刑部左衛門國清が居住したと伝えるとする。
 「信達一統志」では、この館の東に天文年中(1532~55)伊達勘五郎歳宗が居住した風越舘が存在したと紹介されるが、その事については、現状では館の痕跡を観察できないとした。
 ただ、字芋殻館・風越・殿上・舘下等の字名や伝承、それに瓦等の出土から開発時には再調査の必要性を記述する。

 弘化3年の大鳥城墟の図にもこの城が描かれている事を紹介し、大鳥城とのかかわりを紹介する。
 この時の「大鳥城」は、14世紀後半に有力な城郭として機能していた事をもとにした以下の定説のイメージ中での話になるのだろう。
 その城主は信夫佐藤清親と推定される。
 平安期かから鎌倉期まで字舘の地で居館を構えていた佐藤氏は、鎌倉末、南北朝動乱の開始と共に山上に居館を構築した。

a0087378_5162717.jpg
 「芋殻館」は、大鳥城北東約1㎞、丘陵頂標高277.2mを最高点とし、南北150m、東西70mの範囲に主な遺構が配置される。
 南北40m、東西15mの平場が主郭で、そこに、山の神の祠があって、芋川主膳と書かれた木札があったという言い伝えがあるとのことだ。
 その南側に一段低い小規模の平場、北側には南北40m東西20mの副郭の平場があり、更にその北側斜面に数段の階段状の平場が残るとのことだ。北西斜面には、虎口が明瞭に残るとも。
 遺跡の保存状態が良好で、主郭の東側の尾根には数段の小規模な郭、主郭、副郭東南西斜面には数段の帯郭、主郭の南側主面には、方形の平場も観察できるという。

 これはこれですっきりする。
Commented by 山田久夫 at 2012-01-28 15:11 x
飯坂の赤舘は伊達政宗が(応永9年)に上杉禅禅秀に攻められた舘と考えられる。出土物の年代も裏付けている。
信夫郡を鎌倉府に差し出せの命令に逆らい、鎌倉府側に攻められた。信夫郡は明徳の和約により、南朝系の領地となっていた。
応永9年には敗れ、応永20年に息子の松犬丸が大仏城に立て籠もり事件を起こし、信夫郡の奪還を図ったのである。
信夫大庄司説は、間違い、よく読めば、犬庄司と書いてある。
Commented by shingen1948 at 2012-01-29 05:49
少なくとも、本丸部分の平坦化=削平化による拡張という城郭整備は、持宗だとみているということでしょうか。
9代政宗にかかわる赤舘は、西山城本丸あたりをイメージしていました。

by shingen1948 | 2011-09-24 05:19 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(2)