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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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舘③

 この舘を石栗勘解由の居城としての興味で見てきたが、「福島市の中世城舘」では飯坂重房の二男豊房の居館という説も紹介する。
 応永23年(1416)に「上杉禅秀の乱」が勃発した。将軍足利義持は持氏(関東公方)を助けて、関東・奥州の豪族たちに参戦を指示した。この時、飯坂重房の二男豊房は、伊達持宗を助けて参戦、その功によって「信夫郡余目荘下飯坂・佐葉野・宮代等数邑」を宛がわれ、下飯坂村に移った。 下飯坂村の祖となり、居館を下飯坂舘屋敷に定めた。(福島の町と村)

 その館が、慶長年間に、石栗勘解由の居城となったとしても矛盾ないと思う。

 館の痕跡だが、「福島市の中世城舘」では、「現在は、字舘屋敷の西端部に水路に沿って土塁の残存と推定される土盛りが北西隅及び南に約50mほど確認されるのみである。」とする。
 たったそれだけという感じだが、散歩人にとっては、ここに土塁をイメージ出来ることで、舘の範囲がイメージできたような満足感を得ることができる。
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 その土塁の痕跡は、先の散歩の道筋から北に向かう道筋の奥に見える林付近だ。この道筋自体が、舘の西のラインだろうと思われる。


 この道筋を進んでくると、右手に林が見えてくる。
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 これが、土塁の残存と推定される土盛りとされるものだと思われる。


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 そのまま少し進むと、この林が切れている所がある。恐らく、ここが館の北西隅とされる地点なのだろうと思われる。

 その奥を覗きこむ。それが舘の北側のラインなのだろうが、そのラインは明確には分からない。


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 北西方向から、西のラインを見るとこんな感じだ。

 この舘、石栗勘解由の居城ということで、「天地人の時」のカテゴリーで整理してきたが、飯坂氏の居館と見直すと、伊達氏とかかわるカテゴリーになってしまう。今回は、とりあえず「天地人の時」のカテゴリーのままで整理しておく。
Commented by 山田 久夫 at 2016-01-01 14:57 x
「応永23年(1416)に「上杉禅秀の乱」が勃発した。将軍足利義持は持氏(関東公方)を助けて、関東・奥州の豪族たちに参戦を指示した。」となっていますが
将軍足利義持が助けたのは上杉禅秀だと思います。
足利治亂記によれば。
Commented by shingen1948 at 2016-01-01 17:28
ご指摘ありがとうございます。「福島市の中世城舘」の紹介を引用させていただいたままです。確認が必要ですよね。
by shingen1948 | 2011-09-21 07:40 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)