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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高舘②

 ここは、摺上川と小川の合流地点近くの小川によって形成された河岸段丘上だ。
 この南側の小川に近い標高130~90mの月崎面から更に東に張り出したその端に位置する。この東側には、摺上川に形成された氾濫原が広がる。
 奥の細道との関連で見れば、医王寺から八景で小川を渡れば、ここは位置的に東に寄りすぎる。わざわざこちらを経由して飯坂に向かうものなのかどうかは分からない。詳細は確認していないが、そのまま飯坂に向かう道筋があってもおかしくはないようにも思える。

 「福島市の中世城舘」では、この舘の規模を地籍図から東西110m南北108mと推定している。地目は不明とのことだが、その地籍図からは、素人目にも明確に掘と土塁をめぐらした方形単郭の舘が想像できる。
 この舘は、「信達ニ郡村誌」によって、佐藤七郎前信によって、治承年間に築城されたと考えられているらしい。
高舘②_a0087378_4252771.jpg
 「高舘址(上飯坂村)」
 元標の西南4町30間高舘にあり 東西45間南北54間2尺 高邱の上に在り 佐藤元治の嫡男前信廃疾有て家を嗣く能はす 
 此塁に居る文治5己酉年源頼朝の泰衡を討つ時陥ると言伝ふ今猶お敗塁を弁すへし
 これは、案内板の建つ位置から、その舘の位置といわれるあたりをみているが、その雰囲気はどこにも残っていない。
高舘②_a0087378_428290.jpg
 その原形は、東北農業試験場畑地利用部建設によって破壊されたようだ。
 ここが、その舘の原形を破壊したという東北農業試験場への入り口だったはず。桜並木が印象的だったと思い出す。

 現在は飯坂南部土地区画整理事業に伴う整備中とのことだ。
 「福島市の中世城舘」によると、その整備のために次のような調査経緯をたどったという。
 昭和61年に試掘りで、掘跡堆積土と推定されたが、平成元年2年本調査ではその掘跡は、確認できなかったという。
 また、平安時代の竪穴住居跡も発見されたが、舘に関連する遺構は確認できなかったとのことだ。遺物としては、中世陶器・和鏡が発見されているとのことだ。
 ただ、周辺地域から古代時代の様相を想像させる断片がみえたものの、その解明は進んでいないということらしい。
by shingen1948 | 2011-09-14 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)