地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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仏坂~「舘跡の道」③~「五郎兵衛館」⑥

 「平田舘」から河岸段丘沿いの「せの上道」筋にこだわってみた。その摺上川の河岸段丘の道は、「五郎兵衛館」の「舘跡の道」を経由して医王寺まで続くのだが、その河岸段丘を形成する川は、「星の宮」付近からは小川のそれになる。

 「五郎兵衛館」の「舘跡の道」を医王寺まで進んで、それから河岸段丘を降りる道筋をメインに散歩したのは「奥の細道」を意識したからだ。
 「舘跡の道」からの道筋には、この河岸段丘を降りるもう一つの古い道筋があるようだ。
 それが、「仏坂」という地名とかかわる道筋だ。「信達一統志」に、「小川より此の舘え登る坂を仏坂と云ふ 何れも由ありけに聞こゆ」とあると紹介される。
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 その道筋は、飯坂電車が通る今では一番ポピュラーな道筋だ。
 飯坂電車の「医王寺前駅」の名称も、大正14年の開業時は、「仏坂駅」だったようだ。これを、次の年に改名しているようだ。

 この「仏坂」という名称は、地元では馴染み深いのかもしれないが、散歩で意識させられることは少ない。
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 恐らく誰も気にとめることはないだろうと思われる所に標柱を見かけただけだ。ただ、これを見つけると、飯坂街道を横切る「仏坂経由医王寺」の道筋も気になってくる。

 見方の変化がもう一つある。それが「舘跡の道」のイメージだ。これも、散歩を通した個人的で勝手な見方だ。
 仏坂を意識すると、小川を越えて「大鳥城」へ続く道という意識が強化されるように感じる。そのことによって、佐藤氏の「大鳥城」とかかわった「五郎兵衛館」と「平田舘」という意識の強化につながるように思うのだが、どうだろうか。

 「福島市の中世城舘」の情報で先に整理した五郎兵衛館主を再確認しておく。
 消えた案内板では、五郎兵衛館主について「大鳥城主佐藤基治の家臣大越五郎兵衛義持が守っていた館跡」としていた。「福島市の中世城舘」では、それを出典とからめて解説する。
 「『信達一統志』では大越五郎兵衛の居館とあるが、これは『平泉実記』に拠ったと推定されている。」と紹介し、「『大鳥城記』では、ここを大越城(別名五郎兵衛館)としている。」
 更に、「信達一統志」沖中野村「古碑」の項「大越五郎兵衛」にかかわる記載について以下の紹介をする。
 古碑 昔文治年中佐藤庄司が家臣大越五郎兵衛と去有志あり其人の石碑なりと云へり……。
 此の地より西の方は上飯坂の地なり 旧舘あり大越五郎兵衛が居住せしと云 此の人大音を発すれば遥かに大鳥城まで其の声聞こえしとかや 故に大声と字せしも云えり 大越と大声と其の訓同じければかく云へるものものなるべし

 この古碑は、平野字高仏の板碑群と推定されるとのことだが、その板碑群は、「平田舘」の一部だ。地形的に同じ河岸段丘沿いの舘であり、舘主平田五郎も佐藤氏の家臣ということでの興味ともつながっていく。

 本当はもう一つある。それは体調を崩して人力車に乗った正岡子規が、文知摺観音からどの道筋で飯坂温泉に来たのかということだ。人力車では、この仏坂を使った道筋はかなりきついように思う。 それなら、明治10年開通中村道ならどうだろうかと思うのは、何度も飯坂までの道筋を散歩してみての感想だ。
by shingen1948 | 2011-09-09 05:12 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)