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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「五郎兵衛館」②

 この舘の南側の掘跡や土塁跡とされる処に近づくのは容易だが、西側には近づく道がない。
 小心者は、医王寺前駅のホームから東側を眺める。
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 南側の土塁跡の目印は、火の見櫓だ。その左手が空掘り位置で、民家が見える辺りがそれと重なるはず。掘は、その民家から少し手前に延びているはず。


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 そのあたりが、この辺りなのだろうと目星をつける。
 念頭で北側に回り込んだ時の三軒並んだ民家付近と、南側の今は民家への道筋になっている付近とを結ぶラインを西側の掘跡と想定している。


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 ここがその三軒の民家だが、この辺りで道筋が曲がっているのはそのこととかかわるのではないかと勝手に思う。素人としては、ここが北隅でもよさそうに思うが、「福島市の中世城舘」では、北側は段丘崖を自然要害とするまで延びているとみているようだ。
 舘の規模は、案内板では東西65間(117m)南北72間(130m)の舘とし、この河岸段丘の北東隅とみていた。信達ニ郡村誌をもとにしたと思われる。
 「福島市の中世城舘」では、「東西125m南北140mで、信達ニ郡村誌をもとにしたと思われる規模に近いようだ。」とみている。
 北側と東側は、この河岸段丘の比高差20mの段丘崖を自然要害として利用し、南と西に掘と土塁をめぐらした単濠単郭の舘跡と推定しているようだ。
by shingen1948 | 2011-09-06 05:40 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)