地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「五郎兵衛館」

 この舘については、飯坂古道を散歩しているうちに、「奥の細道」の道筋と重なり、古道散歩の寄り道として整理している。
 星の宮から五郎兵衛館への河岸段丘沿いの道を歩く。そして、そこから医王寺へという「奥の細道」の流れの中で次のように整理している。
 ○ 飯坂古道から奥の細道に寄り道:五郎兵衛館跡付近 
 ○ 飯坂古道探索道草「奥の細道」~五郎兵衛館跡から医王寺
 散歩としては「奥の細道」とのかかわりで整理しているが、舘としては「大鳥城」「五郎兵衛館」 「平田舘」として整理しておくのがいいのかなと思う。
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 先の散歩時には、この五郎兵衛館跡付近には案内板が建っていて、「五郎兵衛館跡」と「奥の細道」にかかわる解説がされていた。ところが、最近はこの案内板は撤去されたようだ。
 今は「五郎兵衛館跡」の標柱だけが建つ。


 この案内の解説と自分の感覚が合わないところが、「福島市の中世城舘」で合点が行ったということになるのだが、これは後出しジャンケンのようなものだ。あくまでも、自分で納得できたという話。
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 何度か来ているうちに気にはなったのが、この土手だ。その南側の窪地らしきものが道を挟んだ西側の民家まで延びているようで、こちらも気になっていた。勝手に土塁と掘跡とかかわるのではと思っていたが、そのままにしていた。
 この感覚と案内板の解説にしっくりいかないところがあったのだ。
 案内では、標柱位置が舘の東南の隅とし、ここから西南までを土塁を回らしていたとあった。そのこととの整合性がとれないでいたのだ。
 土塁と感じたところを舘の北辺と見てみようとも思ったが、地形的に不自然なところがあった。掘が舘の内側になってしまうのではないかとも思えた。

 「福島市の中世城舘」では、この土塁跡とされる丘が舘の南側をめぐらした土塁の一部としていた。これなら納得できると思ったのだ。ただ、自分の感覚にも間違いがあって、窪地らしき地形は、終戦直後の耕地整理時に重機で破壊された跡でもあるということだ。従って、現況の窪地は、掘の痕跡とは見れないという事でもあるようだ。

「福島市の中世城舘」によると、まず、平成4年に地籍図で西側端の土塁跡と推定される付近の発掘調査が行われたようだ。この情報は、「平野の伝承とくらし」にもあったが、その結果を今まで確認していなかったのだ。
 ここから9世紀代の遺構と、土師器・須恵器、陶磁器が出土したのだが、これだけで館内の遺構と断定することはできなかったとのことだ。
 そこに、聞き取り調査で土塁が存在したとする地点を調査し、そこから整地層が確認されたということが加わって、総合的な判断として館内の遺構と判断しているということのようだ。
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 まずは、「五郎兵衛館」は、現在案内柱が建つ付近から北に進んで、土塁とされる丘の北側と推定されるということを確認する。
 現況の地形の凹みそのものではないが、その手前に堀というイメージ自体はそのままでよさそうだ。
by shingen1948 | 2011-09-05 05:20 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)