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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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増田舘

 「山形宮城福島の城郭」では、312に上岡舘を、324~326に塩野目舘、下岡舘、志和田城を、345に増田舘を分類する。ここで、増田舘の所在を湯野としているは誤りだろうが、気になるのは、下岡舘だった。
 「福島市の中世城舘」で、上岡舘をニ連の可能性もあると指摘しているのが、その下岡舘を含めて「上岡舘」とみているのかもしれないとも思う。

 この中の「増田舘」については、先に「近傍の舘遺跡②~再び上岡遺跡⑱」として整理している。
 この「増田舘」と近傍の他の舘と比べての特色は、この舘に関わりそうな資料はあるが、実際に発掘調査で城舘が確認されてはいないということのようだった。
 この時の整理では、その資料とのかかわりが中心だった。
a0087378_504690.jpg
 略測図と地籍図を重ね合わせた図をもとに、もう一度散歩で確認するが、とりあえず「増田舘」について確認したことを再掲する。
 「福島市史」では、天正元年(1532)以降、西山城とのかかわりで大塚将監の采地とされたものと解説する。更に、「東湯野概史」をもとに、三島神社も、将監とのかかわりだとする。天正18年(1890)将監氏は、宮城県に移ったとする。

 この大塚将監が、「山形宮城福島の城郭」でいう増田将監と想像する。

 先の散策では、「福島市の中世城舘」の概測図の南側のラインは意識できているが、北側のラインを意識していなかったような気がする。また、この時には寺の駐車場付近の丘を土塁のかたわれかもしれないと思っているが、この概測図ではそれはない。

 日本地名辞典をもとに「増田郷」を整理したが、それも再掲して「福島市史」の在家についての解説を付け加えておく。
 ます田(中世)
 戦国期から見える地名。伊達【だて】郡のうち。天文段銭古帳に「伊達にしね」のうちとして「一,十仁〆四百仁十五文 ます田」と見え,12貫425文の段銭がかけられていることがわかる(伊達家文書/県史7)。「采地下賜録」によれば、当地の柴田在家・黒須在家が大塚将監に与えられ、守護不入とされている。
 「福島市史」が、その在家について以下のように解説する。
 ここにいう柴田在家にかかわって、現在地名として残る「新発田(しはた)」をそのかかわりとし、明治の初めまで地方の人は「しばた屋敷」という名を用いた事や屋敷のいぐねが残っていたと紹介する。
 黒須在家については、黒須姓の家の現存から、この地に定着した一族と見られるとする。

 南側のラインが意識できている事で満足しているが、北側のラインを意識することを中心に確認してみようとは思う。
by shingen1948 | 2011-08-28 05:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)