地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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塩野目舘②

 雨の合間に、「福島市の中世城舘」の略測図と、自分でイメージした図を資料に、もう一度塩野目舘を確かめに出かけた。
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 これは、南西方向から法伝寺の観音堂の丘付近の地形を確認した所だ。右手が観音堂になる。
 ここに写る道を登って、それから果樹園の南端を登る。


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 その丘からは、略測図にあった南北に走る堀がみえる。
 この右手の丘の果樹園が舘跡と思われる。その風景と、自分でイメージした図を見比べる。この果樹園の南端の方に残る林は、崩された土塁がの名残だろうか想像してみる。


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 先の観音堂は、下方に見える。


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 堀に降りて、南側に向かって撮ったこの写真が、実際に感じている風景に近いイメージだ。


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 北端のあたりから北側を眺めるとこんな感じだ。図と見比べると、土塁が崩されて、平坦化した部分という感じだろうか。

 「福島市の中世城舘」では、この一段低い部分が、地籍図の字会田畑のほぼ中央に南北に細長い地割(水田)と重なり、北端から東へもほぼ同じ幅の地割(畑地)が延びるこの地形も、掘跡と推定しているようなので、自分の感覚とも一致する。
 地籍図では、この地割の内側に並行して細長い地割(林)が読み取れることから土塁跡と考えられるようだ。それは現況ではない。

 先に資料なしで散歩して、地形の観察から遺構らしきものを探ろうとしたが失敗したのだが、その訳が分かる。
 東側の舘らしい遺構の痕跡は、少ないようなのだ。
 「福島市の中世城舘」では、地籍図に字会畑の東の字横町や南側の字上町には同様な地割が見られないこと、東と南は一段高台になっていること等から、こちらには掘や土塁を構築されなかった可能性を指摘している。

 資料なしで、遺構を見つけた時の満足度は強いのだが、何度も足を運ぶ事になる。
 今回は、それでも確認できなくて資料を元に散歩した。
 満足度が落ちるかというと、そうでもない。イメージ通りの風景が目の前に現れた時には、それなりの感動がある。しかも、その確からしさに不安がない。不安がない分、安心して自分のイメージをふくらますことができたような気もする。

 なお、「福島市の中世城舘」では 舘の規模は、東西90~100m南北130~140mと推定しているらしい。また、「東湯野慨史」では、舘の南木戸と推定した通称「たての坂」の修理をした際に、石の階段らしき敷石が発見されたとかという情報が記載される。
by shingen1948 | 2011-08-24 06:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)