地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「伝:佐瀬大和守種常之碑」に出逢う②~ようやく会津へ⑧

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 「佐瀬大和守種常之碑」の案内板は、磐梯町教育委員会が建てたもののようだが、立ち寄った「道の駅ばんだい」には、その案内は見受けない。
 周辺案内は、磐梯山の豊かな自然と四季折々の風景と会津仏教文化発祥の史跡慧日寺跡が中心だ。特に、平成20年に慧日寺跡に金堂が復元されたことで、史跡慧日寺跡にスポットを当てる。

 伊達政宗とかかわって散策すると、磐梯山東南一帯の山麓は磨上原となる。
 天正17年(1589年)に伊達軍と蘆名軍が総力を挙げて干戈を交えた古戦場ということだ。
 伊達氏の視点に立てば、伊達政宗が中山峠を越えて、蘆名氏に刃向かい手引きする猪苗代盛国の猪苗代城に入り、猪苗代城が伊達軍に占拠されたことで、地理的に「摺上原」が決戦場になるとみる。
 軍を手引きする盛国は伊達派だが、嫡男の盛胤は蘆名軍という親子分裂を呈する。

 ただし、この辺りでは葦名氏が伊達政宗に侵略されるという構図の視点で捉えられる。
 それで、戦死した蘆名氏の家臣三名(会津の執権と言われた金上盛備、佐瀬種常、佐瀬常雄)の忠誠心を後世に伝えるために「三忠碑」が建てられるのだ。

 ところが、その「佐瀬種常の碑」は、この「道の駅ばんだい」近くにあったのだが紹介されない。そのことを考えてみた。
 今考えると、「三忠碑」の碑の案内も、戦闘や忠誠心の紹介というよりも、この碑を建立したのが会津藩主・松平容敬公で、嘉永3年(1850年)にこの碑を建てたことや碑文を揮毫した儒学者を讃える意味合いが強いように感じていた。
 会津若松を中心とした会津観光の目玉である松平容敬公とのかかわりで捉えられていたということだ。
 それよりも、平成20年に慧日寺跡に金堂が復元されたことで、会津仏教文化発祥の地に注目が集まっている。その中心はこの地であり、そちらに視点を向けることで地域の活性化を図ろうということなのだと思う。

 家族は、土産が買えたこと、原発より80㎞以上離れた地の新鮮野菜が買えた事で満足していた。残念だったのが、ソースカツ丼が売り切れだったことのようだ。
by shingen1948 | 2011-08-20 05:27 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)