地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「伝:佐瀬大和守種常之碑」に出逢う~ようやく会津へ⑦

 今回は、散策の目的を考えていなかった。家族のアッシー君状態だ。
 ちょっとお土産が買いたいとのお申し付けに応じて、49号線から東長原駅を経由して「道の駅ばんだい」に立ち寄ろうとした。
 その途中、橋を渡ったところで、案内板が目にとまった。とりあえず、車をとめて、Uターンしてみた。脇によける広さはなく、道にとめることになり、多少ご迷惑をかけてしまった。
 案内板を読むと、「佐瀬大和守種常之碑」とのことだ。

 
佐瀬大和守種常之碑
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 佐瀬大和守種常は、葦名家四天王の一人、大寺の東、大谷川端に居を定めていたといわれ、同じ葦名家四天王の一人富田美作の子常雄を養子として近くに住まわせていた。
 天正17年(1589)6月、磨上原の戦いでは、会津に攻め入った伊達の軍勢を防ぐため、磨上原へ出陣した。しかし、葦名家一門の猪苗代城主盛国が背いて伊達勢に見方したため敗れて退却の途中、この大谷川べりで討死した。
 村人は、その戦死をいたみ、五輪塔を建てて冥福を祈った。
 文化2年(1805)10月、会津藩は、ここに碑を建て、墓守を置いた。
 嘉永2年(1849)には、磨上原に三忠碑が建てられ、その武功がたたえられた。

 平成4年3月21日
 磐梯町教育委員会
 
 天正17年(1589)の「磨上原の戦い」にかかわって散策したのは、2008年だ。
 その年の夏は、伊達政宗の「会津への路」をたどったり、恵日寺を中心に、仏教文化の「会津から」の発信を中心に散策したりした。
 案内に出てくる三忠碑については、この時に「松並木の中の「三忠碑」」として整理した
 その松並木については、「旧二本松街道松並木」として整理した
 地味だったのは、「陣の山館跡」に立ち寄ったことと、「大寺古砦跡」に立ち寄ったことだ。
先に整理したこの「「大寺古砦跡」への立ち寄り」も、かかわる。
 その案内板に言う「佐瀬平八郎父子」というのが、「種常・常雄」ということのようだ。

 会津藩主松平容敬によって、嘉永2年(1849)に古戦場跡に三忠碑が建てられたり、文化2年(1805)に会津藩がこの碑を建てて墓守を置いたりしているようだ。
 佐瀬氏一族は、葦名氏の滅亡により離散の運命となっている。その中に、のちに会津藩保科松平家に仕えた佐瀬氏がいて、会津藩士の先祖書上である『要略会津藩諸士系譜』に佐瀬氏が記録されているという。それによれば、佐瀬氏の家紋は「月星」、本姓は「千葉」であったと記されているとのこと。
 その忠誠心を後世に伝えようとする動きとかかわっているのだろうと想像する。
by shingen1948 | 2011-08-19 05:17 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)