地震とのかかわりを確認する ~ ようやく会津へ⑤
2011年 08月 17日
この地震、震度は7程度あったとのことだ。
今回の会津の震災でも震度は4~5程度らしいので、それとは比べものにならない程大きかったということのようだ。鶴ヶ城の櫓の石垣が崩れたり、当時7層だった天守閣が傾いたりしたとのことだが、成程とも思う。
今年は2011年で、丁度400年前ということのようだが、今回と違うのはその震源地だ。
会津盆地西縁活断層との事で、一説によれば震源は三島町滝谷付近ともいわれているとか。内陸直下型の地震だったようだ。
なお、今回の震災で話題になっている「慶長三陸地震」も、この年の12月2日に起こっているらしい。
福島では今でもブルーシートを被せられた屋根の風景が広がるが、会津若松では見かけない。今回の地震それ自体による被害は少なかったように思う。
ブルーシートを被せられた屋根の風景が自然に感じる麻痺した感覚で見ているせいなのか、こんな堅固な石垣も崩れることもあるのだろうなと意識する。
石垣に登られないようになっているが、前々から登れなかったのかどうかは、意識していなかったので分からない。子供の頃は自由に登って遊んだものだ。
この本丸の中の石垣も、少し膨らんでいるような気もする。
あちこちにブルーシートがかけられているのは、今回の震災での被害なのかどうかも分からない。
先に整理した上杉謙信公仮廟所跡の案内板に「当時の城内の様子は正確には分かりませんが、「城内」が今の内堀に囲まれた中を指しているのならば」という表現がある。
上杉景勝が、120万石で入封するのは、慶長3(1598)。謙信の墓所が安置された城は、現在の城の形ではなく、蒲生氏郷が完成させた城のイメージのようだ。
その城のイメージを確認する。
天守閣は、自然石を積み上げた野面積みの石垣の上に7重の天守が建っていという。
天正18年(1590)に会津に入封した蒲生氏郷が、文禄元年(1592)から建設し、完成させたものとのことだ。
この時の城は、本丸の東に二の丸・三の丸を配したものとのことだ。
それが、慶長16年(1611)8月の会津大地震後、現在の原形になっている5重の天守閣になるのは、寛永16年(1639)とのことだ。
寛永4年(1627)、伊予松山から会津に入った加藤嘉明が、父子二代にわたる大改修で、現在の5重の天守閣になったという事のようだ。
この時に、西出丸と北出丸が増築され、土塁は石垣になり、空堀が水堀になったということのようだ。