地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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近傍の舘遺跡③~再び上岡遺跡⑲

 半沢氏は、旧増田村村社でもある「三島神社」が、村の変遷と村の国家神道政策との関わりから、次のように変質したことを解説する。
 旧増田村村社「三島明神(のち小社)」
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 旧来は、祭神は大山祗(山の神)であったが、明治7年社殿改築の際に桑折町諏訪神社の神官久保篤見が高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)と改め、のち、国学者平田篤胤の説によって明治18年より八重言代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)と改めた。
 更に、香取明神(じんげんたろう)らと合祀され、祭日は4月3日とされてしまった。
 このこととかかわるのが、明治9年に合併して東湯野村が誕生するが、その村社に「橿原神社」が創建されたことのようだ。その神官には、桑折町諏訪神社の神官久保篤見という方が兼務するようになるようだ。この方を中心に「むら」の神社改変が行われたらしい。
 〇 明治8年 堤山山頂に神武天皇遥拝所創建
 〇 明治9年 塩野目村・増田村・板谷内村・下湯野村が合併し東湯野村が誕生する。
 〇 明治11年神武天皇遥拝所の名称を橿原神社とかえ、県から村社として許可される。
 4月3日の祭日というのが、この神武天皇祭ということらしい。

 この橿原神社については、先に「もう一つの奥の細道」⑤で触れている。明治27年、子規は桑折に向かう途中「葛の松原」の茶屋で休むのだが、この神社はその少し手前にある。橿原神社創建は、その時の流れに沿った出来事であり、子規は開発の息吹を感じながらここを通ったのではないかと想像したのだ。
 なお、橿原というのは、初代天皇とされる神武天皇が橿原宮に即位したという『日本書紀』の記事にもとづくもので、橿原神宮は、明治23年(1890)に創建されている。

 この時に「北向稲荷」にもふれたが、その視点は東湯野村という捉え方だった。
 ここは、旧塩野目村の鎮守のようだ。「むら」から「村」へという観点から、旧増田村・旧塩野目村という視点で、旧塩野目村の鎮守「北向稲荷」ということで整理し直す。
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 半沢氏によれば、言い伝えでは、この神社の社殿ができたのは天保元年(1830)とのことだが、棟木の墨書では嘉永2年(1849)ということになるとのことだ。
 御神体木像は、明治6年に桑折町諏訪神社の神官久保篤見がこれは仏像だとして焼き捨てたという。そして、三島神社と同じように祭日を4月3日とされてしまったとのことだ。 
 また、昭和19年には、神木(樹齢235年など3本)は戦争供木のため伐採された。
 更に、内畑稲荷明神、同小社稲荷、北向稲荷が「北向稲荷」として、合祀されたという。

 マホロンの情報検索では、その旧塩野目村にも「塩野目舘」がプロットされる。
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 プロット地点と舘ならばという雰囲気からは、恐らくこの辺りだと思うが、どうだろうか。
 この舘については、調査はされていないようだし、資料もないようだ。秋山氏もこの舘については特にふれていない。
by shingen1948 | 2011-08-07 05:02 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)