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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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発掘調査報告書の再版~再び上岡遺跡⑰

 昭和27年の上岡遺跡発掘調査報告書は、東湯野村教育委員会の発行だが、これが昭和48年に福島市の「文献資料刊行会」から再版で出版されている。
 これは、東湯野村教育委員会の調査報告を復刻するとともに、その後の成果も追録されている。  その中の「雌性座像土偶」の写真に、本格調査の成果が見れるように感じている。
 発掘された当時の写真と、追録された写真を見比べると、そこに大きな違いがある。
 発掘された当時の「雌性座像土偶」の写真では右側の腰から腹部にかけての部分が欠けている。比較的欠けが少なかった左側も、太ももの後ろの部分と腹部が欠けている。
 これが、追録された写真では、今の姿になっている。これは、本格的な調査の成果なのだろうと想像する。

 東湯野村だが、上岡遺跡発掘調査報告書が再版された昭和48年には福島市に編入されている。
 従って、出版に関わる交渉の相手は、福島市教育委員会になる。ここに発掘に携わった秋山氏が、この時点で市史編纂室に在席されていて、その資料提供を行っていらっしゃるようだ。
 東湯野村が、福島市になるまでの変遷をもう一度再掲して整理しておく。
 〇 明治22年4月1日伊達郡湯野村と東湯野村が合併し伊達郡湯野村
 〇 明治34年9月1日 伊達郡湯野村から伊達郡東湯野村分離
 〇 昭和30年3月31日、飯坂町・平野村・伊達郡湯野町・伊達郡茂庭村と共に合併し、飯坂町に
 〇 昭和39年1月1日福島市に編入

 発掘に関わった鈴木善兵衛氏は、東湯野中学校教諭とのことだが、その東湯野中学校は、現在は存在しない。
 この消滅は、昭和30年3月31日の飯坂町との合併とかかわるのだろうか。湯野中学校と東湯野中学校を合併して西根中学校になったのだと想像しているが、これも定かではない。

 この昭和48年の出版物だが、何故かこの上岡遺跡を、下岡と三島神社の間の地点と紹介する。
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 左手の森が、三島神社の地点だ。
 ここは、現在「上岡遺跡」と「上岡舘跡」とが重なる地点の東側にあたる。
 確かに、「上岡舘跡」の北側に堰上遺跡(縄文土器・土師器・須恵器・石器の散布地)があり、これが縄文・平安時代の遺跡と考えられている。また、道を挟んだ南側には、縄文土器と石器の散布地の「久保遺跡」がある。その東隣(道路元標のある地点の南側の道路沿い集落付近)に、縄文・平安時代の遺跡と考えられる「堂の前遺跡」がある。その真南は、縄文時代の遺跡と考えられる「上五反田遺跡」とのことだ。
 その広がりを漠然と捉え、縄文遺跡「上岡遺跡」としたのかもしれないとも思う。

 ここを確認している時点では、石塚を意識していなかったが、ここ(東湯野字天神前・三島)は、中世の塚「増田石塚群」とされる付近のようだ。ここからは、鎧・刀が出土しているという。

 昭和27年の発掘調査は、個人的な探求心から始まっている。それが専門家による調査整理されていくという過程をたどる。それが、「上岡遺跡」の特色の一つなのではないかと思う。
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 このことの弱点として、遺物や資料の在りかが気になる。その一つは、個人の手持ちの可能性とのかかわりである。
 もう一つが、行政区の変遷が複雑だったこととのかかわりで、うまく福島市に引き継がれていったのかということだ。

 神社前の案内板には、東湯野小学校の隣に歴史資料館が紹介されるが、それが現在も存在している風には見えない。
by shingen1948 | 2011-08-04 05:31 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)