再び上岡遺跡⑬~昭和27年発掘調査をどう伝えたか④
2011年 07月 31日
氏は、本格的に発掘調査はしていないが、地道に丹念な表面採集をして、その収拾とたことを元にして、丁寧な考察をしている。
坪池氏のこの遺跡周辺の表面採集の結果を図示した「遺跡付近の遺物分布図」は、「福島業書」にも掲載される。
個人的には、「字上岡13番地」に記載され採取状況のうち、この遺跡の特徴的な出土品である土偶についての古老の話の採取が興味深かった。
宮西との境の用水掘からは昔から多くの遺物が採集されている。筆者がこの事について上岡屋敷の古老達2・3人についてたづねたところによると、昔自分達の幼児は稲荷神社の脇を流れている前述の堀の石橋の付近より、人や馬(?)の形をした土人形を拾っては同神社の境内で「ままごと遊び」の「おもちゃ」にしたものだとのことである。これは、同地から出土する土人形即ち土偶に動物土偶などもあったことが推測されて興味がある。
氏は、こうした丁寧な表面採集の結果として、「上岡遺跡は今回発掘調査した箇所並びに前記上岡西部一帯及びその付近より出土した遺物によって考察すれば、縄文式文化の後期より晩期にわたる遺跡で、この他に本村内でこの系列に入る遺跡には、東には本村増田部落の南部に字堂の折付近の遺跡がある。」としている。
これは、上岡遺跡について本格調査が入る前の段階での話だ。
なお、氏はこの時点で付近の遺跡を以下のように考察している。
上岡遺跡は、睦合村の万正寺遺跡、塩野目部落の北西の字寺西付近の遺跡、湯野町の小崎付近(小山前、角原、山田川)の遺跡から明神町付近の遺跡及び愛宕前付近の遺跡と関連を持つ。
また、縄文式文化中期として、板谷内部落の字腰巻付近をあげ、俗に「八景の土手」高台上で、漁撈に最適だが、関連遺物が発掘されないとしている。この遺跡が発掘調査されるのは、確か昭和47年の高速道路建設に伴う調査のはず。
更に、字樫浦と字柳沢前付近は、出土品が少なく、新しいものと古いものがあって時代が特定しにくいと考察している。
こうした縄文式文化土器の考察をした上で、この地域の時間的な連続性として土師器・須恵器を出土する遺跡が重なることとしている。
「弥生式文化土器が付近から出土しているが縄文式土器の出土はなかった。」と話すはずがないことは、明かなのだ。