地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び上岡遺跡⑫~昭和27年発掘調査をどう伝えたか③

 新聞記事では、民間考古学者坪池忠夫氏は、以下のコメントをしたことになっている。
 伝説によるとこの付近一帯は昔も鍛冶町と瀬戸物町が200戸ほど家なみを並べていたといわれ、弥生式文化土器が付近から出土しているが縄文式土器の出土はなかった。

 「弥生式文化土器が付近から出土しているが縄文式土器の出土はなかった」ということへの疑問と共に、「昔は鍛冶と瀬戸物町の伝説」とやらが気になる。
 このことに関しては、坪池忠夫氏が「遺跡の概観」の「字宮西一帯」の中で解説している。坪池氏が記者に伝えたかったことを読み取ってみる。
 まず、「字宮西一帯」では、その伝説については以下のように記述する。
 明治初年までは、字鍛冶打(現在この字名は南隣りの地の呼称)と呼ばれて、口承伝説に鍛冶屋町と瀬戸物屋の町が有ったといわれている。それは、この土地が原野より初めて開墾された場合とか畑地から水田となされた場合に、多数の土器や炉の跡を持った竪穴住居跡群がたまたま発見されたもので、昔の人達が不思議に思いこのように語り伝えたものであろう。

 また、「字鍛冶打(現在の地番で)」の解説では、この地の概要を解説した後、次のように付け加える。
 また、同字の南の畑より鎔滓(俗に金くそと呼ばれている)と共に土師器を出土するところがある。字名の由来もそれから前期の字宮西一帯に残る口碑伝説もこの鎔滓の出土に関係があるものと思われる。

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 坪池氏は、記者に縄文式文化の竪穴住居跡群や土師器と共に出土する鎔滓と絡む伝説として紹介したのだろうと想像される。
 それを、記者は、「土師器と共に出土する鎔滓」の部分を使って、新しい時代の鍛冶と瀬戸物町の話にすることで、この時の発掘がより古い時代の発見だったことを強調した構成にしたのだろうと想像する。
 
 なお、坪池氏は、別の項で「この伝説は稲荷神社の書類では、『昔刀鍛冶がこの辺りにいて、稲荷神社の神霊が白狐に化身し、その鍜練法を伝授したために名工になりし云々』とある」ことを紹介する。また、別に「この地に西洋鍛冶屋がおり、切支丹の鍜練法実施した」という言い伝えもあるらしいことも紹介している。
by shingen1948 | 2011-07-30 05:33 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)