地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び上岡遺跡⑪~昭和27年発掘調査をどう伝えたか②

 報告書の経過を確認し直してみると、この日「梅宮氏、秋山氏並びに福島民友新聞記者が調査に来村」とある。
 新聞記者は、梅宮氏が連れてきたものと推定できる。また、この新聞に写る生徒達は、秋山氏が引率してきた信夫高等学校の生徒だと想像できる。
 そして、割り振られた役割分担から、この経過記事は、東湯野中学校教諭鈴木善兵衛氏が整理しているものと想像できる。
 その設定を頭に置いて、記事と経過を読み比べる。すると、この記事の背景が透けてくる。
 それは、この記事は、本格調査に入る日の記事であり、本格調査善に本来的な成果があったことだ。本格調査は、詳細調査が目的ではあるが、もう一つ権威付けの意図があったことが伺えるのだ。

 その意図が見えるのは、コメントだ。
 そのコメントにも『全国でも珍しい』<文化資財に指定の価値>の見出しがつく。
 県社会教育課梅宮主事の話
 出土品は、いまから2千(年)前の石器時代最後の縄文式文化時代の土器だ。この子育て土偶の学名はまだない全国でも珍しいもので文化資財に指定される価値があるものと思う。今後居住の大きさ、形などを知るため発掘された炉の付近をもっと掘ってしらべてみたい。

 <気味悪い位出てきた>
 最初の発見者元七、恒七さん兄弟の話
 桃畑の水はけが悪いので暗渠排水作業を行っているうち第二トレンチから続々土器片や炉石が鍬先にあたったが最初はそう気にとめなかった。あんまりたくさん出てくるので気味悪くなって知らせた。
 <昔は鍛冶と瀬戸物町>
 同村の民間考古学者坪池忠夫氏の話
 伝説によるとこの付近一帯は昔も鍛冶町と瀬戸物町が200戸ほど家なみを並べていたといわれ、弥生式文化土器が付近から出土しているが縄文式土器の出土はなかった。

 ここに二つ隠れていると思う。
 一つは、写真では梅宮氏が生徒の前で発掘しているが、最初の発見者元七、恒七さん兄弟が知らせたのは、父伊七氏であり、その連絡で坪池氏と鈴木氏が既に発掘していたということ。それを本格調査のために元に戻しておいたものだだということ。
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 もう一つは、報告書によると同村の民間考古学者坪池忠夫氏は、実際には付近から多くの縄文式土器を発掘している。その事を隠して、地元の民間考古学者でさえ、今回初めて縄文式土器の出土にふれたと演出されている。
 実際には、この報告書でさえ、縄文式土器の出土と土師器・須恵器等の出土分布状況が報告されている。

 つまり、今回の発掘は、専門家によって初めて発掘されたものであり、その事によって地元の民間考古学者でさえ驚く縄文式土器の時代の文化遺産だったという記事の構成になっているということだ。
by shingen1948 | 2011-07-29 05:19 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)