再び上岡遺跡④~「雄性座像土偶」発掘地点を想像する
2011年 07月 20日
まずは、昭和27年12月の発掘調査の位置を確認する。
「上岡遺跡調査報告書」によれば、黄色で囲んだ三角形の桃畑が発掘調査されたという。
この時の本格的な発掘調査の中心は、炉跡Aと炉跡B地点の住居跡を確認することだったようだ。それを「上岡遺跡調査報告書」にある図にA・Bと示してみる。これが、その炉跡Aと炉跡B地点ではないかと想像する。
炉跡B地点と雄性座像土偶発掘地点と関連があって、この二つの地点は一つの竪穴住居跡上にあると想定して確認作業をしたようだ。本格調査では、住居跡としてのの確認と共に、遺物の未発見の部分を見つけだそうということのようだ。
調査は、更に炉跡A地点と炉跡B地点を結ぶラインに幅1m50㎝のトレンチを入れて、精査したという。
報告書には、その本格的な調査とその結果については、視覚化された情報が提示される。
しかし、そもそもその炉跡A地点と炉跡B地点がどこかという情報記述は曖昧なのだ。
そのヒントになりそうな記述は、「調査の経過と遺跡の状態」の「発見当初」の項にある。ここでは、本格調査前の土偶や炉跡発見時の様子が記述される。この発見は、元々排水溝の新設工事中の出来事だ。
ここでは、排水溝と村道との位置関係や遺物発見場所と排水溝のかかわりが記述される。従って、位置情報は、排水溝を基本として記載される。しかし、肝心のこの排水溝の間隔が記載されていないという状況だ。
それで、いくつかの情報を組み合わせて発掘地点が想像できないか試してみる。
まず、炉跡B地点についての本格的な調査の図を見る。そこには、雄性座像土偶発掘地点と炉跡B地点がプロットされる。この点を結ぶ線が、排水溝工事のラインと推定してみた。
これに、先の「発見当初」の項にある炉跡B地点と雄性座像土偶発掘地点の以下の情報を重ねてみる。
「炉跡Bから西に2m50㎝掘り進んだ所の第8号地点から雄性座像土偶発掘された」
これを基本にして、以下の村道との位置関係の情報を重ねる。
「炉跡B地点は、村道より4m50㎝西に入った第7号地点」
ここに、以下の炉跡A地点の情報を重ねる。
「炉跡A地点は、第2排水溝の西に1m70㎝入った第1号地点の西に7m入った2号地点のそのまた西に6m60㎝入った第3号地点」であるという情報だ。ここから、村道の地点をプロットし、炉跡B地点からプロットした村道の地点を結んで、村道の位置を想像する。
これで、村道と炉跡A地点、炉跡B地点と雄性座像土偶発掘地点と村道の関係が推測できる。
更に、以下の排水溝の情報を重ねて、炉跡A地点と炉跡B地点の関係を想像する。
「炉跡Bは第4排水溝の中にあり、この間に第3排水溝がある」ということだ。もう一つ、「第9号地点はこの土地の最北端」であるという情報がある。
溝と溝の間の距離情報はないが、「木と木の間に溝を掘った」ようなので、溝は等間隔の平行線であろうと想像して線を引いてみた。
今度は、上岡遺跡の調査報告書の図と現況の関係だが、これは稲荷神社境内の側溝ラインと航空写真を見比べて推測してみた。
水色で示したのが、現況の民家の位置だろうと想像してみた。
これ等の情報を「上岡遺跡の調査報告書」で示された図に重ね合わせて、黄色の○で示した付近が雄性座像土偶発掘地点ではないかと想像してみたのだが、どうだろうか。