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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊野神社②~湯野村共同体の一つ「四箇村」として

 「ゆの村」の「熊野神社」の説明に、鎮座する四箇村とのかかわりを解説する。このことは、湯野村という共同体が統合されていく過程ということでもある。
 その視点から整理すると、湯野村は、大きくは北原村・湯野村・四箇村が合わさってできた村ということのようだ。
 その小さな共同体である湯野北部の北原村は、寛文 (1661~1672)の頃独立しているとのこと。 そして、「熊野神社」が鎮座するここ四箇村は、元和4年(1619)に、湯野村の内蔵之助という方が中心になって、四つの村(湯野村・上飯坂・下飯坂・板谷内村)が合わさって出来た村とのことだ。

 今回の散歩で「志和田舘」を整理する時にふれた集荷場は、四箇や新古屋から農作物を集荷する施設とのことだ。このことは、その集荷場のある前野と集荷する四箇や新古屋が一つの共同体をなしているという事なのだろうと思う。
 今回摺上川河岸段丘を意識して散歩した前野・新古屋・四箇地区は、先の四箇村地区の一つの共同体として括れるような気もする。
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 今回の散歩した付近を一つの共同体として括れば、この地区としては「八幡山 法道院」は、八幡宮や桐町の赤観音のお祭りの儀式を取り仕切るその共同体の寺となるだろう。
 「熊野神社」も、その四箇村を中心とした地区の「お熊野講」を取り仕切る神社という感じなのではないかと勝手に思う。


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 「ゆの村」では、この熊野神社の敷居や鴨居という戸を立てる構造物が無い事を、子供も遠慮なく出入りできる「自由に遊べる構造体」として紹介する。新しい建物でも、その伝統を守ったということなのだろう。

 先の写真はこの神社に掲げられた旧社だ。江戸時代の絵図なども掲げられ、散歩の中ではこの地区の公民館に近いことも担っているような雰囲気を感じた。

 ここからは、ここの散歩で、勘違いから妄想が膨らんだことの付け加えだ。
 自分としては楽しかったので、自分の記録として整理しておく。
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 説明を読んだら単なる竃神だったが、昨年散歩中はどこかに「天地人」の意識があったのだろう。その構造が気になって妄想を膨らませた。
 女人連が「感謝」する伝統ということと、その意味が分からなくなったこと、それでも祈り続けるという文脈で、妄想が膨らんだのだ。
 女人連からは、あちこちの地域を散策してよく目にした産婆や医師が思い浮かび、石塔からは上杉をといったような妄想だ。

 実際は単なる竃神であるという以下の解説でけりがついてしまった。しかし、その妄想自体が自分としては結構楽しかった。

 誌
 昔(年代不詳)女人連7人衆が、竈に感謝する意味で建之供養したものと思われるが、永年風雨に晒され風化し崩壊寸前に至った故に氏子一同で一基を新造一基を修復再建して古人の志を後世に残すものとす
 平成元年三月吉日

by shingen1948 | 2011-07-14 05:51 | Comments(0)