地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「志和田舘」②

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 「志和田舘」の土塁跡が気になって、確認した。「ゆの村」によると、高さ4mの土手が南北に続いていたそうだが、一部崩され、民家の裏手に出る道になっているとのこと。


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 ここが、その民家の出入り口のために掘り崩されたところらしい。

 「ゆの村」によると、掘り崩したところをよく見ると、何度も土を運んで積み重ねた跡が見られるという。


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 その入り口の反対側だが、土塁はこちらにずっと続いていたということのようだ。「ゆの村」は、「古くは、この土塁が、南側の崖をのぞく三方を囲んでいた」と解説する。
 明治9年ころにつくられた古い図面には、三面の土手が雑草を生やしたように描かれていたということだ。


 明治のはじめまでは、その原形がみとめられていたらしい。
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 北側に回り込んでみる。土塁の延長線上に、土手跡が見えるようでもある。


 「ゆの村」では、「志和田舘」についての言い伝えを紹介する。
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 前9年の役の時、源義家が東北の阿部宗任を攻めにきたとき、安倍氏がここを守っていて、朱旗を立てていたところで、はじめは「しゅはた」といったが、いつのまにか「しはた」となり、今では「しわだ」になったというのである。
 そして、「志和田舘」は、その時代よりは新しいが、古い舘の形の特徴であることを解説する。

※ この近辺の放射線量<マイクロシーベルト/h>は、前野集会所1.02・JA湯野0.72・田島集会所0.95・熊野神社0.87
 なお、先の東湯野付近は、塩野目集会所0.75・板谷内西集会所0.63・東集会所0.76・ふれあいセンター0.81
by shingen1948 | 2011-07-10 05:55 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)