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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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うずくまる土偶⑤と「にいだっぱら」

 東湯野村が、福島市になるまでの経緯を確認すると、以下のようだった。
 〇 明治22年4月1日伊達郡湯野村と東湯野村が合併し伊達郡湯野村
 〇 明治34年9月1日 伊達郡湯野村から伊達郡東湯野村分離
 〇 昭和30年3月31日、飯坂町・平野村・伊達郡湯野町・伊達郡茂庭村と共に合併し、飯坂町に
 〇 昭和39年1月1日福島市に編入

 上岡遺跡が、発掘される昭和27年は、伊達郡湯野村だが、調査報告は、東湯野村教育委員会に成っているようだ。
 新たな発掘は、昭和53年という事なので、これが福島市としての本格的な調査だったのだろうと想像する。

 上岡遺跡集落は、図説「福島市史」によると「摺上川北岸の河成段丘上」にあると表現される。上岡遺跡をぐるりと回り込んでみて行くと、その「摺上川北岸の河成段丘」という地形が実感できる。
 西根下堰が走る北側の丘が、その摺上川北岸の河成段丘ということのようだという広がりを感じることができる。
 地形的には、伊達街道は、その河成段丘に沿って走っているということのようだ。

 上岡遺跡データベースを確認していたら、その伊達街道沿いの湯野方向にかなり広い遺跡が示されるのが気になった。確認したら「仁井田条里制跡」とのことだった。
 直ぐに、ここは「ゆの村」に、「にいだっぱら」として紹介されたところだと気がついた。ここの散歩も整理していなかった。
うずくまる土偶⑤と「にいだっぱら」_a0087378_51223.jpg
 ここは、はじめは条里制跡そのものを探るというより、古くからその測量の基準となった「一つ石」を探しあてることの興味だった。この石、明治になって新しい土地の区画を決める時にも、その起点となったとのことだった。


うずくまる土偶⑤と「にいだっぱら」_a0087378_535212.jpg
 ただ、この田圃の風景はみていると、懐かしいという感じになった。その懐かしさが何故起きるのかが分からなくて、何度も確認に来ていた。
 「ゆの村」では、この「にいだっぱら」については、次のように紹介されていた。
 「これは、とても古い頃から水田として開けていたところです。ここの田畑の畦道は、今でも正しく南北に通っていて、他にはみられないようなきちんとした区切りが残っているのです。
 これは、古い時代に「条理」の区画をするためにして、このあたりに住む人々が作物を作ったあとである事を伝えています。」

 条里遺構の見分け方を確認してみると、次のような手順らしい。
 地図上に約109m相当の間隔で方格線を引き、地図に重ね合わせる。これが、道路や水路・畦道などがある程度重なっていれば、条里遺構である蓋然性が高い。
 ただ、それらの道路や水路が完全な直線の場合はむしろ近年の地割と考えられる。
 地名で、「七条」、「十里」、「一の坪」などは条里呼称法に由来することが多い。
by shingen1948 | 2011-07-06 05:06 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)