地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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桑折散歩の忘れもの⑤~播磨舘④

 桑折散歩の中心は、「旧奥州街道の桑折宿」をイメージする事が多い。そこでは、この播磨舘は主役になることはない。

 観光案内では、郡役所の建物の東側に桑折陣屋が紹介される。 元禄13年(1700)~延享4年(1747)は松平藩の陣屋として、寛延2年(1749)~明治は幕府代官所として桑折陣屋が置かれたということだ。
 「播磨舘」は、その桑折陣屋の庫場と呼ばれた御城米を貯蔵する蔵が立ち並ぶ風景をイメージすることになる。
 幕領時代、支配下にある各村の御城米を格納庫が建ち並び、南の阿武隈川から積み出しが行われたという。

 今回の「播磨舘」散歩は、ここが主役だった時代のイメージだ。その播磨館の主である伊達氏の庶流桑折氏について、「山形・宮城・福島の城郭」で確認しておく。
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 桑折氏は、伊達氏4代正依の庶兄左衛門蔵人親長(入道名は心円)を祖とするとのこと。
 まず、桑折氏が登場する文書を紹介している。
 ○ 永仁5年(1297)鎌倉幕府が心円の娘と嫡男桑折時長との所領を巡る内紛に裁断を下した「関東下知状」が「伊達家文書」にある。
 ○ 南北朝時代の正慶2年【元弘3年】(1333) 7月桑折孫五郎政長が、後醍醐天皇綸旨によって知行地を安堵されている。
 ○ 暦応元年【建武5年】(1338年)に、桑折政長は伊達氏惣領の伊達行朝に背いて北朝方に降伏し、足利尊氏から知行地の半分をあてがわれた。
 ○ 政長の子桑折左近将監は、元和元年【正平7年】(1352)佐々河の合戦で戦死を遂げている。
 次に、伊達氏とのかかわりを紹介される。このあたりが、今回の散歩のイメージと重なる。
 天正11年(1542)天文の乱の際には、その直接の発端となった稙宗3男実元の越後上杉氏入嗣について、桑折景長は中野宗時と共に伊達晴宗に阻止するよう進言した。
 永禄2年(1559)頃には、晴宗は奥州探題となり、桑折景長の嫡子貞長は守護代に補任されるなど重きを成した。
 天文年間には、桑折氏は苅田郡斎川を采地として与えられ、馬牛城に住んだともいわれる。
 元亀元年(1570)、伊達氏宿老中野宗時・牧野宗仲父子が伊達輝宗に叛して没落すると、その居城小松城は貞長に与えられた。貞長の子治部大輔宗長は、伊達輝宗・政宗2代に仕えて多くの戦功を挙げた。
 天正19年(1591)に政宗が米沢城から岩出山城に移封されると、宗長の嫡子桑折政長も播磨館を去って江刺郡岩谷堂に移った。
 文禄2年(1593)、政長は朝鮮の役に出征したが朝鮮で病没した。政長には嗣子なく、姉婿の石母田景頼が桑折氏を継いだ。
 元和元年(1615)、政宗の庶長子秀宗が伊予宇和島に10万石で立藩すると、景頼はその家老としてこれに従った。
 
 散歩でつなぐとすれば、桑折氏の菩提寺である桑折寺だろうか。
 ここは、永仁5年(1297)に時宗第二祖真教上人が開山したと伝えている。享保4年(1719)に堂宇を再建し、文政8年(1825)に本堂、嘉永元年(1848)に庫裏を再建したとのことだ。
 「山形・宮城・福島の城郭」では、桑折宗長が幼時に出家して覚阿弥を称するなど、代々桑折氏から尊崇されたとのエピソードを紹介する。
 ここは、伊達氏の西山城とかかわる山門の興味から、桑折西山城③の搦手門 ~ 「桑折寺の山門」として整理している。
 ここからは、「伊達朝宗(満勝寺殿)の墓」や「西山城」の散歩へともつながる。 
by shingen1948 | 2011-07-01 05:29 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)